第2話
やはり考えねばならぬことがあるせいなのか、朝から蝉の声が煩いせいなのか、特段早起きの必要もないのに早く目が覚めてしまった。普段なら授業前の空いた時間は、大学近くの駅前カフェで働く時間だが、珍しく今日は午前中の授業もなく、バイトのシフトも入れられずに済んだ。いやむしろ、最初から「この時間で答えを出せ」とでも言われているかのような空白に、多少気味が悪くなる。
いやいや。そんな事はないと頭を振り、さて、答えを出さねばならぬことは二つだ。兄の葬儀に参列するかしないかの返事と、特集企画を練ること。
中途半端に温まったスコーンを頬張りながら、電話の後、すぐにSMSで送られてきた葬儀の詳細に目を通す。通夜なしの一日葬で済ますらしく、告別式は明後日。葬儀場の名前を検索すると、どうやら実家の近くのようである。北千住から電車で三十分ほど、埼玉のベットタウンに母、興梠里美と住んでいたアパートの一室がある。今私が住んでいるところからは、所要時間をスマートフォンでざっくり見積もって一時間半といった所。
「うーん、分かっていたけれど普通に面倒くさい。」
机にスマートフォンを投げ出しながら本音が出てしまった。実家との微妙な距離感が、今回の諸々を差し引いても足を重くさせる要因でもあった。
そして、電話のひとつも出来ない自分にイライラしていると、そもそも今回の悩みの種にもイライラが燃え移る。既に十八歳。それなのに、今更になって兄の存在が発覚って一体なんなんだろう。しかも、葬式のタイミングでその存在を知らせるとか、絶対に正気じゃない。
その上今は、水原おじさんも一緒に住んでいるのだから、母になんとか言ってやらなかったのか。と、頭の中で名前を浮かべたのが仇となったか。机の上に転がっているスマートフォンが震えだす。画面には、その当人である「水原おじさん」という名前が表示されていた。まだ口の中に残っていたスコーンを焦って飲み込み、咳込みながら電話に出る。
「ゲフッ、興梠、あ、由香です。」
「由香ちゃん、元気にしてる・・・って大丈夫?」
「す、すみません。ご無沙汰してます。」
喉につっかえたスコーンを急いで紅茶で流し込み、体裁を整える。水原望、興梠里美の事実婚相手であり、事実上、私の育ての親だったりする。小さな運送会社の経営者で、自分もドライバーとして各所を飛び回っているようだ。
「大学生活忙しいところごめんな!今大丈夫?」
「はい、今日は午前中に授業もないので。」
「よかった!実はさ、今日由香ちゃんの大学近くの会社さんに朝一納入があって、次の先が時間指定があるもんだから、今少しだけ時間が空いているんだけれど。ちょっとそこらでお茶でもしない?」
「お茶しない?」って初めて言われた。古典的なナンパワードを自然に使いこなすあたり、若いころにはお盛んだったのだろう。既に五十代にもかかわらず、外見から往年のチャラさが抜けない。そういえばこういう所も含めて、ちょっと苦手だったなと思い出す。
「あ、ほんとですか・・・要件は、昨日の母の電話の件ですよね。」
「昨日?あぁ!そうそう、里美さんが電話入れてたもんね。いや、本当に急な話で申し訳なかったと思う。そのお詫びと、俺からのお願いでね。」
朝から母への電話をためらいっぱなしだった私にとって、それは渡りに舟だった。母親の身勝手さを知っている彼なら、ちゃんと話すことができる。今まで存在も知らなかった兄の葬儀なんていうイベントに、おいそれと参加できるはずもないと分かってくれるはずだ。そもそも、そんな勝手な母の行動に彼も憤っているかもしれない。
兎にも角にも、母への電話をせずに意見表明を行えるタイミングを得られたことに対して、私は安心を覚えた。
「わかりました。少し出るのに準備がいるので、少しお待ちいただければ。」
「了解!確か今住んでいるところは駅に近かったよね?俺、適当に停めるところ探してるので、三十分後駅前で。」
時間指定もスムーズに済んだところで電話が切れた。いうべき事を頭の中で整理しながら身支度を整えた。
時間通りに水原望は駅前に現れた。午前中の強く厳しい日差しに薄目で確認するしかなかったが、彼はやはり太陽がよく似合っていた。サーファーのような浅黒の肌にサラサラ髪は未だに健在で、いつもの通り真ん中分け、毛先は少し茶色に染まっているという本格派である。
「由香ちゃん、久しぶり!半年ぶりくらいかな。」
本人が言い張れば三十代後半でも通じそうな外見とバイタリティを感じる。「少し落ち着いた所がいいね。」そう言って、駅前の路面にあるカフェではなく雑居ビルの二階にある薄暗い喫茶店に入っていく。平日の午前中、女子大学生とチャラそうな謎の中年男性。いかにも怪しい組み合わせに、頼むから大学の友人や知り合いに見られないようと念じながら彼の後を着いていった。
水原望は確か母の昔の職場の同僚で、父と別れた後にもともと身体が強くない母の様々なサポートをしてくれた人だったという。それは私が生まれてすぐの頃の話で、記憶にはない。物心ついたら、完全な同居とは言わないまでも、よく一緒に夕飯を食べたりするようになっていた。本当の父を知らない私からしたら、水原おじさんは限りなく父親に近い人。ただし、私も成長するにつれ、頻繁に彼から「家族ではない何か」を感じとるようになってしまう。
「いやあ、日ごろから成長を眺めていたつもりだったけれど、しばらく会わないと本当に大人になったって感じがするね。初めて由香ちゃんと会ったときなんて一、二歳だったから。そんな子が大学生なんて、おじさん、泣いちゃいそう。」
言葉と裏腹に大げさに目尻を下げて二カッと笑った。
彼はシングルマザーとなった里美の体調面を気遣ったり、幼かった私の子育て、更に学費までを一部面倒見てくれているという、サポートと言うには度を越えて興梠母子を支えてくれていた。私と母が長いこと二人暮らしをしていた部屋も、彼が見繕ってくれたらしい。駅から徒歩十五分。マンションとは決して言えないが、アパートにしては広い。自分の部屋もあったし不満はなかった。
改めて大学に進学出来たことと、一人暮らしの引越しを手伝ってくれた事に対して礼を伝えると、
「いや、自分でも奨学金得られたんでしょ?前からバイトも頑張っていたし、これは由香ちゃん自身の実力であり、努力の成果だ。俺がしたことなんて本当に僅かだよ。」
謙遜するというより、本音からそう思っているような口調で返される。
私は実の父と会ったこともなく、母は私を産んだ頃から心身を病み、子を構う余裕すらなかったという。そんな環境下、この水原望という人物がいなければ、私は一体どういう人生を送っていたのだろうと、ときたまひとり怖くなる。
もちろん、彼に対して筋通り感謝の念は抱くのだが、その背面に見えない見返りの存在を想像しては、微妙な気持ちになる。この人から何かを言われたら逆らえない、という理不尽な恐怖心が心のどこかにあるのだった。
「そういえば、母は元気にやっていますか。」
会話に詰まった私は一応聞いておくことにした。
「うん、今回の聡くんの件で多少滅入っているみたいだけれど。普通通りに仕事には行っているし、食事も、睡眠も今のところ問題なさそう。口数が多少減ったくらいかな。」
「あの人。普段しゃべらないのに、更に減ったらもう沈黙してるだけじゃないですか。本当であれば私が見ないといけないのに。なんだか、一家そろって迷惑ばかりかけちゃってますね。」
自重気味に笑う私に対して、彼は真顔になる。
「それは違う。俺は里美さんが好きなんだ。その娘である由香ちゃんも勿論、ね。迷惑ってのは、本人が思ってこそ迷惑なんだよ。俺がそう思っていないのなら、そこに迷惑は生じていない。そうだろ?」
「・・・はい。ありがとうございます。」
余りのまっすぐな目線に耐えられず、俯いてストローを咥える。それを見ておじさんも自分が熱くなってしまったことに気づいたようで、多少トーンを落として話し始める。
「それにしてもだ。もう里美さんとは出会ってからは十七年かな。それこそ由香ちゃんが産まれた頃からだからね。更に一緒に暮らし始めて半年になるけれど、俺、里美さんのこと、未だによく分からないんだよ。」
心底恥ずかしそうに、邪魔そうな前髪を横に流している。私より三十も年上の人が、まるで私より年下の男子になって恋の相談でも持ちかけたのかと思うような仕草に、つい可笑しくなってしまった。顔を赤黒くした水原が呟く。
「笑わないでよ。」
「ごめんなさい。でも私だってあの人が何考えているのかなんて分かりませんよ。それどころか、私が産まれる前に、我が家に何があったのかすら教えてくれないですから。」
「そうだよな!本当に喋らない、強情なんだあの人。頼れと言っているのに、自分だけで進みだそうとする。俺、実は嫌われてるのかなあ。」
そう言う彼の顔は、案の定綻んでいる。
「ほんと、そんな人のどこが良かったんですか?」
「いやぁ、全部。」
あまりの即答に、危うく呆れきった表情が表に出るところだった。水原のおじさんが言うには、母に出会った当初から心底惚れていたらしい。実際、我々母子に対しての過剰なまでの献身は、彼からしてみれば里美に対する精一杯のアプローチということになる。
彼は結果、母と事実婚関係にある。私が大学進学で一人暮らしをするタイミングで引っ越し、一緒に住まないかという打診を申し出た。水原おじさん一世一代のアタックに、母はひとしきり彼の話を聞いた後、押し黙った。かなりの時間黙っていたが、最終的には彼が押し切る形で母は了承した。
「いやあ、今回の件もどうかと思うよね。一緒に住み始めてはみたものの興梠家についての知識レベルは僕も由香ちゃんとだいたい一緒。里美さんがどこかの誰かと電話をしていてね。いつも以上に、深刻そうな顔をしたから、どうしたんだい?と掘り下げてみたらこれだよ。」
呆れ顔の彼が今回の本題を切り出す。私の兄、興梠聡が亡くなったことについてだった。
「え、おじさんも兄の存在を聞いてなかったんですか。」
「まあ、俺は仕方ないと思うよ。実際、俺は途中参加の部外者だから。でも、由香ちゃんが聞かされていないっていうのには驚いたな。実際の兄妹、ってわけだからね。」
憐れみと、悲しさが合わさった眼差しをむけられ、思わず目線を逸らす。
「・・・はい。私も驚きました。葬儀にしたって、母が決めたことですよね。勝手なことをして本当にすみません。」
何度も謝る私に対して、今度は水原おじさんの方がバツの悪そうな顔になる。
「本当にあの人は勝手だよ。由香ちゃんには言わないつもりだったけれど、やっぱダメだ。その件でちょっと里美さんと今喧嘩中なんだ。」
母が甘えるとなんでも許してしまう彼が喧嘩とは。意外そうな顔をした私を見て、
「いや、喧嘩といっても実際には顔を合わすとちょっと気まずいくらいなもんだけれども。」
フォローを入れてから、カップを持ち上げてゆっくりと口に運ぶ。
「でも、俺が本当に彼女を怒ったのは、今由香ちゃんが思っているのと多分逆のことだよ。」
「母が一人で勝手に葬儀を取り仕切ったわけではない、ということですか?」
思いついたままを口にしてみた。
「そう。里美さんは、その聡さんが亡くなったことを、そもそも、なかったことにしようとしていた。」
「なかったこと・・・。」
分からなかった母の意図が更に見えなくなった。
「さっきは端折っちゃったけれど、先程の電話を終えて、別室から帰ってきた彼女はさも仕事先からの業務連絡でした、みたいな顔をするんだよ。完全に死にそうな目でさ。」
その時の表情が浮かんだのか、水原おじさんは深いため息をつく。
「それでどうしたんだと、聞いたわけだ。すると、なんでもない、と隠そうとしたんだぜ。大事な人が明らかになんでもなくない時に、そう言われると人って流石に傷つくものだな。」
ついつい、おじさんに同情してしまった。私が母のことを最も嫌っていた言動のひとつが「なんでもない。」だったから。家族であることを否定するかのような拒絶。いつからか、こちらから手を差し伸べようとすると、彼女は決まって壁を作った。もしやそれはこちらへの気遣いなのか、それとも単純に不要だという意思表示なのか。そんな対応を続けられると、やはり声をかけるのも嫌になってくる。
「あの人、会話ってものをしてくれないんですよね。そういう重要な時でさえ。」
「な。ここに分かり合える仲間がいてうれしいよ。それぞれ旦那のことを愚痴って笑う、主婦の井戸端会議みたいだな。」
あっけらかんと笑う。この人が最初から、本当の父だったら。もう少し家族の形は綺麗に纏まっていたのだろうか。そんな意味のない妄想が一瞬浮かんで、消える。
「だからこそ今回、俺は引かなかったんだ。聡君の葬儀をちゃんとやろう、と言ってみたんだ。」
そこでようやく気付く。ことの発端は彼だったのだ。
「そして、そこに由香ちゃんも。いや、遺族としてでなくてもいい。とにかく参列してほしいんだ。お願いできないかな。」
彼は律儀にテーブルに手をつき、小さく頭を下げた。聞けば母の電話も水原おじさんが指示をしたようである。母は私に電話をかけることをかなり渋ったそうだが、彼が言うには「勇気を出して電話をしていた。」らしい。そしてこの訪問は、言葉が足りなかった母の電話に加えて、私にも葬儀に参加してほしいという改めての打診だった。
「でも、私。水原おじさんには申し訳ないんですが、断ろうと思っています。だって兄の事、存在すら知らなかったのに。そんな妹が、兄と呼ばれた人の葬儀にどんな顔で行けばいいんでしょうか。」
ここにきて、ようやく私の意思表示をした。そもそも母は私にも水原おじさんにも、その「聡」という存在を隠していたのだ。私は、彼女の隠すことをわざわざ掘り返してまで、知りたくない。
「そうだな。彼の存在を知らなかったのは俺も同じだ。そして、これは俺の憶測だが、里美さんは由香ちゃんに対して、そうした事実を隠すことで君の母親であろうとしたんだと思うんだ。」
子供の頃から私が抱いていたモヤモヤとした感情が、少しずつ明確になり怒りに転じていくのが分かる。
「そんな事実、隠されたほうの身にもなってください。私はあの人に母親らしさを感じたことなんて今まで一度も、」
自然とテーブルの上に置いた握りこぶしが固くなる。
「まぁまぁ、落ち着いて。例えば、包容だったり激励だったり、女の子であれば思春期の共感だったり。両親で言えば父親よりも母親の役割って様々なバリエーションがあると思うんだ。でも、里美さんにはそれを形として表現できるほどの余裕と豊かさがなかったんだよ。それは俺の力不足でもあると思っている。これは先に謝っておく。申し訳ない。」
「そんな、水原おじさんは何も悪くないのに・・・」
徐々に彼を責めているような形になってしまい、申し訳なくなった。彼に責任はない。娘のことすら信じてくれない、母の頑なな態度こそが問題なのだ。
そんな私の怒気を察したのか、少し俯き考えてから、彼が口を開く。
「そういえば由香ちゃん、お父さんのことって、どのくらい知っているのかな?」
突然、話題に出てきた父の話に思考が揺さぶられる。
「いえ、名前とあと私が生まれる頃には、病死が原因で別れてしまったと。そのくらいです。こちらからも、あまり深く聞くことはなかったです。」
私の回答は予想通りといった風だったが、おじさんはどこから話すべきか迷っているようだった。一度水の入ったグラスに口をつけ、腕時計に目をやる。
「そうだな、長話になっちゃって申し訳ないけれど。こんな機会もなかなかないし、せっかくだから最初から話すか。由香ちゃんは時間大丈夫?」
スマートフォンを見れば十時半。
「授業は午後からなので、まだ大丈夫です。」
「それなら、少し昔の話をさせてもらおう。」
そう言って、残っていた水を飲み干した。
「俺が里美さんと同じ職場で働き始めた頃、まだ当時は彼女の名前を知っているくらいで最初は面識もなかった。ちょうどそれから一年ほど経った春、そのタイミングで俺と里美さんの部署が統合されて一緒に働くことになったんだな。それが里美さんとの本格的な出会いだ。」
一言一言、少しずつ話す水原おじさんは、二十年近く前の薄っすらとした記憶を、大切に、壊れないように扱っているようだった。
「もちろん、当時も美人だったから俺も自然と視線が彼女に向いていてね。俺より年上だったけれど、仕事も出来て、上長にも毅然な態度でクールに振る舞う。すぐに俺は人として彼女を好きになったよ。当時俺はモテたから自信もあった。でも、既婚ということを知ってすぐにガッカリしたんだけど。」
表情をコロコロと変えては、当時の事を懐かしそうに話す。
「そんな折に、彼女はお子さんが生まれるということで産休に入ったんだ。その時、身籠っていたのが由香ちゃんなんだ。」
誰からも聞いたことのない私の話。なんだか不思議な気持ちになる。
「産休から復職まで。その間、具体的に何があったのかはわからない。由香ちゃんを出産した彼女は、職場に戻ってきたんだが、既に体調を崩し気味ていたんだな。出社しては早退をしたり、時に休んでしまったり。」
彼は私を傷つけないように、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「周囲からも色々噂が立ってね。何か力になれないもんかと思っていたところに、俺の電話に当の本人から連絡が入ったんだ。体調が悪くて立ち上がれない、近所の保育所に預けた由香を迎えに行ってほしいって。」
「それは・・・」
彼にお願いをした、ということは、その時母はすでに父と別れていたということが想像出来る。おじさんは私が言いかけたことを察して、話をつづけた。
「そうなんだよ。俺もその時同じことを思ってね。保育園から泣きわめく由香ちゃんを引き取って、なんとか彼女の家に戻ったわけだ。その時、聞いちゃったんだよ。旦那は?そうすると、別れちゃった。って。でも、普段の仕事を見れば、そんな短絡的にモノを決める人じゃないって分かっていたから、多分何か理由があるはずだって思ってね。」
おじさんは、それ以降、母の手伝いを買って出たという。幼かった私の世話から、里美の健康面、そして家事やら細かな家のことまで支えた。
「少し自分の話を挟むけれど。俺ね、働き始めの若い頃は、彼女も月単位で変わったり、結婚なんて人生の墓場だって本気で信じてたし。でも、本当に辛そうな里美さんと、幼い由香ちゃんを目の前にしたらさ。ふと、職場で毎日見る、惚れた人なのに、そんな人の危機すら見逃して、男として俺、なにやってんだろ。って思っちゃって。それ以降の俺は、由香ちゃんの知るところだね。」
母はずっと水原のおじさんに申し訳なさそうな表情を浮かべて暮らしていた。それでいながらこの依存を解けるだけの力もなく、そして結局今に至っている。私が生まれてから彼女はどこにも進もうとせず、一歩たりとも踏み出せていないように思えた。
「そんな中、もう四年前になるかな、由香ちゃんが中学生くらいの時。今回の件と同じような事が起きたんだ。」
今回と同じ。なぜだか、私はそれが意味するところを一瞬で理解できた。
「父の事ですか。」
私が聞くとおじさんは静かに頷いて、目を細める。
「由香ちゃんが塾に出ている間だったかな。週末の夕飯時、彼女はどこからかの電話を受けて、今回よりもわかりやすく、さめざめ泣いていたよ。そして、どうしたの?と聞けばやっぱり「なんでもない」と言う。ふと思えば、別れたと言いながら、あの人はそれまで籍を外していなくてね。あまり勘のよくない俺でもなんとなく旦那じゃないか。と察したんだ。」
その後、彼がそのことを問い詰めると、夫が亡くなったという連絡だったことは認めた。どこの病院だ、誰か一緒にいるのか、など聞こうとすると、「それ以上触れないでほしい」という態度を崩さなかったらしい。そして案の定、私には絶対にその話はしないことという口止めがされたという。その頃、まだ親切な会社の同僚という一線を超えられなかった水原おじさんは、結局その先の話を聞けずじまいだった。
「その少し後、里美さんは一日だけ休みを取ったんだ。恐らく一般的な意味での葬儀はせず、直接火葬場で見送ったんじゃないかな思う。由香ちゃんのお父さんがどのような道を歩んで、そして亡くなったのかも知らない。少ない話で申し訳ないんだが、お父さんについて知っていることはそれくらいなんだ。」
「いえ、知らなかったことばかりで。ありがとうございます。」
なんとかお礼だけは伝えたものの、頭の中ではしばらく混乱が収まってくれなかった。今まで閉じられていた蓋が開きかけてしまい、見たくもなかった真相が見え隠れする。「黙っていることで、彼女は母であろうとした。」さっきおじさんに言われた言葉が頭の中で反響する。そして、そんな揺れている私を見つめて、再度熱っぽく念を押す。
「由香ちゃんの気持ちは分かる。自分が知らなかった家族なんて、家族でもなんでもないよな。でも、そうであっても、家族の縁ってのはどこかで繋がってしまっているんだよ。そして、俺からすればあれだけ強情だった里美さんが初めてボロを出したんだ。俺が葬儀をやることも許した、そして君に電話をした。きっと、里美さんにとっても、由香ちゃんにとってもお兄さんを弔うことは、何かが変わるきっかけになると思っている。」
私は黙る。簡単にさやに納まるはずだった問題が、気づけばまた複雑化していた。今更になって何かが変わる?じゃあ、その何かが変わったとしたら、私は、母はどこに向かえばよいのか。私の家族はもう一度始めからやり直せるとでも言うのだろうか。
「そして、これもなるべくなら言いたくなかったんだが。」
饒舌だったおじさんが急に言葉を濁す。ふと周囲に目をやれば、店内はモーニングの時間も終わり、また客が増え始めている。ランチの準備を始めているのか、厨房からいい匂いが立ち込めていた。朝食時から数時間経っている。私はお腹が空いていることに気が付いた。
「聡君、自ら命を絶ったそうなんだ。」
それ以上の情報は、耳が自ら意思を持って拒絶したかのように遠く聞こえた。私は、端から何も聞かなかったことにしようとした。
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