ファミリー・アフェア
@suku_mizumi
第1話
いつの頃からだろうか。私はどうしても彼女のことが嫌いだった。表情、顔、人間性、名前、具体的な理由は何かと問われると答えに詰まる。また、彼女も私に対して同様の感情を抱いているように思えた。必要以上の接触はなく、なるべく互いの関係が深まらないようにと注意深く交わされる会話が続く。
「好意を抱きたい」という気持ちが諦めにたどり着くとき、それは「嫌い」という感情になる。こちらの努力も意味を失い、苛立ちだけがその場に残る。残った苛立ちは、距離として二人を遮る存在になる。それでよかった。双方が求めていないのなら、それは実に自然な関係ではないか。
母と娘。それ以上でも以下でもない。父は物心つく前に亡くなり、あの人は母子家庭で私を育てた。その結果、それ以上の「理由」を失ったのだという。なるほど、義務を超えたサービスは過剰ということだろう。少なくとも、義務を終えたことに対する感謝はある。けれど、やはりどうしても、顔を合わせる度に思ってしまう。どうしても、貴方のことが好きにはなれそうにないと。
一
「どうしたもんか。」
空っぽになったラーメンどんぶりと水が半分入ったグラスの横でぼやく。ニュースでは台風が近づいているとか言っていたような。何の気なく窓の外を眺めれば、清々しい程の曇天。どん詰まりなこの状況と酷似しているように思えた。
私が机につっぷしたまま、十分ほどが経過しただろうか。つい先程まで騒がしかった食堂も、声のボリュームが下がっている。昼食をとっている学生の波が引き、少しずつ読書や自習をする者が増えたのかもしれない。すると、机の上に放置していたスマートフォンが震える。小刻みなリズムが混ざる不快な振動。画面を一瞥して、私は鞄の中にしまい込む。
打合せだったはずのランチ会も紛糾し、私はこの姿勢。他二人からのツッコミもない為、しばらく様子を見ているわけだが。流石に沈黙が続くのも気まずくなってきたので、この体勢のまま、とりあえず現状の説明を試みる。
「これ、何もしていないように見えるでしょ。」
返事がないので続ける。
「考えているの。現状を打開する素晴らしい妙案が沸いてこないかなって。」
誰に問われたわけでもないが、何かしているアピールをしないと二人からの視線が痛かった。しばらくすると、リアクションがあった。
「興梠。それはただぼーっと待っているだけで、考えていないに等しいのではないか。」
正面に座っている偏屈そうなメガネ男が、ただ正論を不機嫌そうな口調で返す。このクソオタクめ。現在、私は諸事情あって弱い立場なので、そんなこと直接言えもしない。苛立ちが意味をなさない呻きになる。事態の進展を隣で辛抱強く見守っていた春日さんも自分のスマートフォンに目をやった。流石に痺れを切らしたようだ。
「なぁなぁ、そろそろ昼休み終わるんやけどなぁ。」
促してくる様もわざとらしくて、画になる女だ。
「由香ちゃん、午後は私と同じ授業やろ?次の教室って食堂から遠いやん、私トイレも寄りたいから、そろそろ行かへん?」
「春日氏の言う通りだ、興梠。机に伏せるという行為が、並行世界と交信し、最高のアイデアを亜空間より引っ張り出す儀式だというなら別だが。」
何だその面倒くさい例えは。
「今のお前のそれは、全くもって意味のない逃避行為ではないのか。そうだろう。え?どうなんだ。」
これだけ人が落ち込んでいる風の様子なのに、容赦のない指摘とウザすぎる追及。とりあえず何か反論を探したものの、概ねその通りだったので渋々顔をあげることにした。言われっ放しも気に食わないので、とりあえず手あたり次第、その辺にあった言葉を掴んで投げてみる。
「まぁ、なんていうか。アイデアのかけら?みたいなものはあるのよ。これは面白いし売れそう!っていう。ここら辺にぼんやりと。」
こめかみを指差しながら、不敵に笑ってみる。そういや「不敵」ってこんな表情であっているんだっけ。
「そうか、是非そのアイデアを聞いてみたいところだ。」
偏屈メガネ男、君津康介が端的に言った後、一つ咳払いが挟まる。
「ただ、興梠は今回の件に関して、ひとまず我々に言うべき事があるだろう。」
皮肉が混じらないあたりこれは本気だと分かる。いつもは間に入ってくれる春日さんまで何も言わない。ここで変に茶化すのは得策ではないようだ。ああ、もう。仕方がない。
「えー、今回の事態につきましては完全に私の不徳の致すところです。すみませんでした!また、なにとぞご協力のほど、よろしくお願いいたします!」
半ばヤケになりながら、食堂半分に響くボリュームで謝罪。勢いで頭を下げた。
「声がデカすぎるわ、阿呆が。」
吐き捨てるように君津が言う。すぐ横から憐れむような目線と、正面からは憎々しげな目線、遠巻きには「なんだ揉め事か?」という野次馬の目線が折重なって、実際に頬をつねられたような心地がした。
それにしても人に謝ったのは何年ぶりだろう。強情という言葉をそのまま転生させたような興梠由香という女は、人に謝れないことが美徳であり、もちろん欠点でもある。そんな私が二人に謝る理由はすぐ後ほど振り返るとする。
食堂にいづらくなった私たち三人はそれぞれ教科書が詰まったリュックサックを背負い、いそいそと次の授業へと向かうことにした。食堂を出ると、むわっとした熱気と湿気が授業に向かう気を奪う。なんとかまだ雨は降っていなかったのがせめてもの救いだった。
「でもさ、私だけが悪かったとは思えないのよね。」
急ぎ足で次の教室に向かう途中、愚痴交じりに昨日のことを思い出す。
「由香ちゃんの言うことは分からんでもなかったけど、私ら一年生だよ?相手と選んだ言葉と、あとは、そう裁判官が悪かったわ。」
めったに人を悪く言わない彼女ですら、腹立たしいといった顔をしている。ただ、のんびりとした関西弁のせいでいまひとつ悪意が伝わりにくい。そこに君津が乗っかる。
「確かに。沙汰を預かるお上が享楽主義者というのは、確実に狂った組織の証左だ。実にくだらない。なぜ時代錯誤な連帯責任などを採用する。江戸時代の五人組制度でもあるまいし。興梠だけがペナルティを受けるべきだろう。いっそ自ら謹慎しろ謹慎。」
結局私がこき下ろされた。
「君津君、それは少しだけひどいんと違う?」
フォローを入れてくれた春日さんも半分笑っている。そんな事に頭を使っている場合ではない。我々「佐和田大学ジャーナリズム研究会」の一年生三人は、ピンチに陥っているのである。
ただ、そんなピンチを招いた張本人が私だからこそ、二人はそこまでの危機感を抱いていない。最終的になんとかならなかったのなら、私の首を差し出せばなんとかなる、と思っているようだ。悔しいが、自分もその立場であればそう考える。生首になった自分の顔を想像してゾッとする。いやいや戦国時代でもあるまいし。
ただ、今この状況下においては確かに戦乱なのだ。絶対に負けるわけにはいかない戦いが目の前に存在している。やはり、私のせいで。
「今回の特集はこれで行こうと思います。何か疑問がある人。」
大きいわけでもないがよく響く声が、しんと静まり返る教室に反射する。異論が差しはさまれる様子はない。私もその一員。そのまま静かに頷くべき所だ。その程度の社会性はある。あるんだけど、同時に疑問があるかも聞かれている訳で。疑問がないかと言われれば、それはある訳で。葛藤しているうち、気づけば右手が動いている。
「あのー、すみません。」
覆水盆に返らないように、挙手した手もまた下がってはくれない。
「あら、興梠さん、何かしら。」
場の空気が変わったのを感じた。感じたのだが、手を挙げた以上は喋らざるを得ない。
「地域と妖怪の関係に纏わる特集って。一部の読者層には貴重な観点である事は分かるんですが、なんていうか、こう。実際に売店や書店で販売するんですから。メイン特集に組むにはちょっと弱過ぎませんかね・・・?」
そんな疑問を発した結果、この部の次期部長と目される遠藤みどり副部長が目を細めたままこちらを見据えた。他に誰もしゃべろうとしない。そういえば時計の秒針の音って、こんなに大きかったっけ。いやでも、何か疑問あるか?って自分が聞いたんじゃん。
それは昨日の夕方。まだまだ残暑は厳しい八月の終わりだというのに文学部棟の最上階、五階の一番端にあるこの教室はどこかひんやりとしていた。七十年代に建てられて以来、耐震などの理由で何度か手は加えられたものの、建物としての基礎と趣は当時のまま。
他の学部棟は既に最新の設備に切り替わる中「人文学の本丸である文学部棟は、この大学の歴史を体言する貴重な文化財なのだ。」という感じの説明を聞いた事があるけれど、要は建て替える予算が振り当てられていないのだと思う。文学部棟を含めた一画が時代から取り残されているようで、すぐ裏に鬱蒼とした竹林があり、日当たりも悪い。せめてトイレくらいはもう少し綺麗にならないものだろうか。そんな不満もチラホラ耳にする。
そんな薄暗い棟の薄暗い教室で「佐和田大学ジャーナリズム研究会」が年に二度発行する季刊誌「SAJAM」の企画方針会議が開かれていた。ジャーナリズムという割に、この研究会の特集方針はオカルトから社会問題、スポーツからグルメに至るまで多岐にわたるというか、実際何でもアリ。とかく、好き勝手雑誌を作って売ろう。という奔放な団体だ。私始め、先ほどのウザメガネこと君津康介、大阪弁の天使こと春日みゆきの三人は、今年度の新入部員として所属している。
片や本学には「佐和田大学マスコミ研究会」という団体も存在しており、二十年ほど前にそこから分派したのが、このジャーナリズム研究会らしい。勿論、本流は後者の「マスコミ研究会」であり、国際情勢や経済の話題を中心題材にやはり季刊誌を発刊している。そちらはOBが新聞社などに多くおり、コネがあるせいか就活にも強いと聞く。
「まぁ、あれだな。先に謝っておくけれど、あちらと違って特段就職に有利ってこともない。あ、でもうちだって陰謀論とか宇宙人ネタばかりってわけじゃないよ。あくまでも自由に雑誌を作れる団体だと理解してね。でも、こっちのが多分楽しいよ。保証はしないけれど。あはは。」
そんな事を部活紹介の際、現部長の四年生、高山満が言っていた気がする。私は適当に笑う部長を見て、入部を決めてしまった。言ってしまえば、本流団体に対して斜に構えてしまうちょっと面倒な人の集まりなのだ。ただ、亜流団体とは言うものの在籍部員は十五名。所帯は小さいが、それなりに上下関係は存在し、基本的にメイン特集を提案できるのは二年生になってから。
「んー、確かに自由な雰囲気とはいっても、一年生が上級生の発案した特集企画に口を挟むのは、多少疑問に感じても基本的にナシかなぁ。一部怖い人もいるしね。」
次いで行われた相談会で、苦笑しながらそう説明してくれた草食系男子っぽい二年の田中先輩を思い出す。
「いるねー、頭固いのが。あんまり私は好きじゃないけど。」
少しだるそうに笑って同意をする二年の松本先輩。こちらは紫メッシュが入った金髪が美しい、ちょっと尖った雰囲気の女性だ。
さて、現在に話を戻そう。優しく対応してくれた両先輩とも、今は前を見てあえて私と目線を合わせないようにしているようだ。田中先輩は平静を保っていても表情の筋肉が引き攣っているのがわかる。一方松本先輩は、私の暴挙を面白がっているのか、どこかニヤニヤしている。そして、私はといえば忠告を受けたにも関わらず、その「一部怖い人」の筆頭に対して反旗を翻してしまっているわけだ。なんていうか、申し訳ない。
先輩からは見放されそうだが、同期はどうだろうか。隣に座る春日さんも泣きそうな笑みをこちらに向けるだけ、君津は少し離れた席から口だけを動かし「アホか」と無音の声を投げつけてくる。どうやら今私に味方はいない。私が問いかけてからの静寂は僅か五秒程だったはずなのに、様々な内省が過る。「ええと」など場を濁そうと声帯の準備を開始したところで、先に均衡は崩れた。
「興梠さん、貴重な意見をありがとう。あなた「弱い」と言ったかしら。それは具体的にどういう懸念があるのかハッキリ言ってみてくれる?」
穏やかで抑揚のない言葉の中に、明確な苛立ちが見える。この企画の発案者である三年生の遠藤みどりは、この団体において副編集長のような存在だ。その校閲作業の速さ、正確さ、そして締め切り間際における担当ライターへの追い込みなどは鬼気迫るものがあり、後輩はもちろん、同輩や一部先輩からも恐れられている。
今回は彼女が学業において専攻する民俗史を中心に取り上げる企画が提出されていた。言ってしまえば彼女肝煎の企画なのだ。配られた企画書も分厚く、もちろん熱量も感じる。ただ、その、言っちゃ悪いんだけど、ほんとに売れるのだろうかそれ。その意見にオブラート包装を施し、懇切丁寧に伝えろ、私。
「いや、わかるんですよ。地域の歴史と妖怪の紐づきについての特集は民俗学の観点からしても興味深いです。遠藤先輩がそこに注力する思いは十分に感じているつもりです。頂いた企画書も完璧・・・ただ、やはり売店などに並んでいるところを想像すると本学の学生が気軽に手に取れるものかと多少疑問に・・・」
「つまり貴方は。この特集では売れないのではないか、と言いたいんですね。」
「えーと、はい。そうです。」
視野の端で部員が数人、天井を仰いだ姿が目に入る。いや、今のは私が折角ぼかして言ったのに、本人が要約してしまったのが悪いでしょ。結果、身も蓋もない非難を浴びせた格好になってしまい、静かに遠藤が息を吸う。
「興梠さん?貴方がおっしゃる通り、我々が刊行する「SAJAM」が売れるか売れないかという予測とその判断については難しい問題です。過去も、これは売れるだろうと思った特集が予想外の結果になったり、逆に専門的過ぎるのではと疑ったものが反響を得たり、実売結果に関して様々な経験をしました。ただ、特集の決定にあたって販売数を優先させるのであれば、精密なマーケティングを行った上で特集を決めることが必要になります。」
遠藤の流暢な日本語が脳髄を流れていく。
「あるいは商学部で行動経済学を専攻している多田くんあたりに指南を乞うべきでしょう。」
「私の研究がお役に立つのであればご協力します!」
突然名前を出された二年生の多田慎也が裏返った声で筋違いな応答をする。こいつは遠藤みどりの取り巻きで、基本的に彼女の出す意見に反論を出すことはない。そのくせ、下級生に対する当たりがキツい。春に行われた新入生歓迎会でも、ここぞとばかりに「あの本は読んだのか」だとか「このニュースについてどう思う」だとか聞いては私たちにマウントを取ろうとする。多田への舌打ちを我慢しつつ、遠藤が続けるのを聴く。
「ただ、我々ジャーナリズム研究会の本分は、自由の名のもとに各々が興味あることを、個々人の熱意に基づき、誌面に落とし込み発信をすること。売れないから、という理由のもと貴重な特集が埋もれてしまうなら、サークル活動として雑誌を作っている意味がないのではないですか。」
自分の特集を貴重って言い張っているように聞こえるのは、私の性格が悪いからだろうか。
「とかく、私たちが今学生であるという事を活かし、今専攻しているものや、本気で研究したいものについて特集を組むということが、今我々の活動において最も優先されるべきことだと私は考えます。いかがでしょう。」
彼女の演説じみた回答は、ジャーナリズム研究会の総意を代弁したといった感じである。周囲の部員から反論が出る余地はなさそうで、先に名前を挙げられた多田などは激しく首を縦に振りながら同意している。
ただ、いくら周囲が同意していようと、一度抜いた刀は納めないのが私の信条。自分の研究を論文以外で世に出したいだけだろう、と捻くれたことを考えつつ引き続き、低姿勢に反駁を試みる。
「ご返答、ありがとうございます。新入生である身として、遠藤先輩のご意見には多くのことを学ばせていただきました。ただ、私個人の考えとしては読む人があってこその雑誌。逆に言えば、それこそ各自の専攻については、それぞれの学部において。授業やゼミを通して研究なさればよいことではないかと。」
「それではジャーナリズム研究会に各自の学業を持ち込むな、と?」
瞬時に切り返される。反応の中に敵意が混ざり始めているのが分かる。
「いいえ、そこまでは言っていません。特集を決めるにあたっての判断基準が偏りすぎているのではないかという疑問を抱いたまでです。」
私としては昔から、上から何かを決めつけるということが気に入らない。先輩だろうが、先生だろうが、親だろうが、一言多くなってしまうのだった。
「そもそも一方的な案の提出と承認という形でなく、ここで折角大勢の方が一同に集っているのですから、議論の上で決めてもいいんじゃないでしょうか。」
そこまで言うと、多少論点がズレたのを察知してかデザイン担当の三年、相田美久がヒートアップする空気の中、ふんわりとした口調で言葉を挟む。
「まぁ、興梠さんの言うことも一理あるんだけれどねぇ。ほら、うちってとにかく方針が自由でしょ?この手の雑誌の特集企画って、こう一様に意見を募りだすとほんっとに纏まらないんだよね。過去にかなり揉めた経験もあるし。ねえ、高山部長。」
無理やりにでも話題を逸らそうとした結果、思わぬ方向へ飛び火した。あまり今回の議論に入りたくなさそうだった高山部長も、名前を出されたからには何か言わざるを得ない。
「懐かしいな。二年前だったかな。今でも覚えているよ。その頃は一時期公募で特集を決めていたんだけれども、オカルト派閥とお堅め特集を組みたい社会派組が対立しちゃってね。」
突如話を振られて無理をしているせいか、早口になる。
「最終的に二冊発刊したんだが、結果、部内の結束は乱れ、コンテンツもボロボロ。双方とも販売は散々で、お互いに痛み分けで納まったんだが、今思うと本当に不毛な争いだった。」
わざとらしく遠い目をして悲しげに語る高山部長に対して、やはりわざとらしく頷く相田と、明らかに冷たい目線を向ける遠藤副部長。様子がおかしい。この議論とはまったく異なる理由で部員がソワソワしだすのを感じる。慌てて相田が議論を整えにかかる。
「ということもあってねぇ、みんなでこう一斉に話し合うってのは難しいのよやっぱし。興梠さんもそこは分かってね。そう。なので、基本線は遠藤副部長の今回案で進めて行きたいのだけれど、どうでしょう?ね?」
異論なし、という意味の拍手がパラパラ鳴りだす。「危なかったけれど、大きな揉め事に発展しなくて良かった」という安堵なのか、張りつめていた教室内の空気が少しずつ融解しだすのを感じる。って、いいのかこれで。
後から田中先輩に聞けば、その時実際に部員たちの大多数が考えていたことは遠藤みどりのヒステリー発動を回避することだったらしい。普段は冷静で相手の懐に入って議論ができる彼女だが、一度火がついてしまうと相手が殲滅するまで議論をやめない暴走機関と化す。そんな事態に数々の辛酸をなめさせられてきたジャーナリズム研究会総意として、とりあえず議論の決を最優先させることでこの事態に一旦の終止符を見出したとのこと。
「ね、遠藤さんも特集が決まったからには布陣を決めて、編集メンバー選出に移らなきゃ。」
この場を纏められたという自負から、相田が進行を買って出る。だが、彼女は残念ながらもう一人の当事者である私の性質を完全に無視していた。相田がこちらに目を向けた時、今思えば申し訳ないことに私は既に半分キレてしまっていたのだった。
「・・・ちょっとすみません。」
その一言で教室は再度修羅場へ。
だって、そもそも私の質問から始まった議論なのだ。にも関わらず、一方的に締め出された上、外部からの介入によって強制終了を食らい、終いにはパラパラとした拍手だけで自らを否定された。許せない。
「私は遠藤副部長と話をしていたのですが!何なんですか、特集を拍手で決めるって。貴方たちの雑誌作りってそんなものなんですか?」
思わず言い放つと、先輩らがひるむのを感じた。すると据わった眼をした副部長からもコメントが。
「興梠さん、貴方の疑問に対して私が答えていたのだから、こんな中途半端な茶番で決が取られるのは私としても不服です。私は興梠さんだけでなく、全員と真っ当な議論がしたいわ。」
私だけでなく、彼女もまたその真面目な性格ゆえ、自ら練り上げた渾身の企画が場の空気で適当に決まってしまうことにすら納得していなかった。
人によっては「果たして今回は何時間の拘束になるんだろう。」「明日一限の授業なんだけど。」「夜勤のバイト間に合うのか。」など各位様々な不安が胸中を過っていたという。そうすると、部員の目線は自然と部長に集まる。ヒートアップするばかりの私たちを目の前に、高山部長が強めに机を叩いて立ち上がり、大きな声を挙げた。
「遠藤さん、興梠君。昂っているところすまない。一度冷静になってほしい。この話、僕に預からせてほしい。」
軽口ばかりでふざけた事しか言わない普段の部長とは違った声質と表情に、当事者二人も憑き物が一瞬取れたような表情になる。部員も彼がここまで大きな声を出すのを聞いたことがなかった。
「この私が冷静でないと・・・?」
遠藤副部長は反論を振りかざすも、部長の一喝に先程までの熱量は減少している。
「いえ、私としたことが取り乱しました。えぇ、まぁ、部長が言うなら。納得のいく裁定を願います。」
いつもなら反論に対する反論が重なり、否応なくノンストップ演説会へ突入となるところ、部長による威圧と議論相手が新入生である私ということもあって、自制を取り戻したらしい。
「あ・・・すみません。私も熱くなりすぎました。」
流石に場の空気を察して私も続く。ここら辺で、ようやく流石に頭が冷めてきた。
「まず興梠君。この空気の中、一年生でありながら遠藤さんに意見をした件だけれど。」
教室の雰囲気がピリッとした。
「これについては、実に勇気ある行動だったと言いたい。自分の意見をしっかりと言うというのは、モノづくりや議論における基本中の基本。これについて、他者が陰でどうこう言うことはあり得ない。すべては議論から始まる。ここは安心して自分の考えについて意見ができる場所だ。これは我が研究会の共通見解とさせてほしい。」
無言ながら皆が皆頷く。私は説教されることを覚悟しただけあって、密かに安心していた。
「遠藤副部長が今回提案した企画に対して、彼女自身かなりの熱情をかけてきたことは十分理解している。あくまでも学生だから許される「作りたいものを作ることが出来る」という特権を最大限振り回すのが本団体のやり方だと思っている。だからこそ、まず売れるかどうかということが、特集決定に対する最優先の要件になることは、僕が部長である時代に限ってはないと思ってくれていい。それについても大丈夫かな。」
基本的に遠藤みどりと同じ事を言っていてるのに、部長の言葉には言葉以上の説得力がある。気づけば私自身も頷いてしまった。
「あと特集内容についてだけれど。今回のテーマ、これは皆が思っている以上に読者にとってもキャッチーだと思うよ。幸いにも我が大学には全国の出身者が集っている。読者には自分の勝手知ったる地元の新たな側面を気づかせることも出来るはずだ。彼女のホームグラウンドである研究対象だし、その企画を進めた場合、踏み込んだ特集が出来ることに僕は疑いを持っていない。実際、面白い本になるだろう。」
高山部長が彼女に目線をやり、彼女も当然といったように静かに微笑む。持ち上げられつつ、懇切丁寧に再説得された私の感情も納得へと落ちていた。機転を利かせた部長の立ち振る舞いによって、紛糾しかけた企画会議もこれにて無事閉廷に向かっていたのだが。
大団円直前、当の部長からこんな発言が飛び出した。
「と、ここまで言い切っておいてなんだが、今回の会議。こんな本命馬がいるのに対抗馬がいないというのも面白くないのではないか。という気持ちもある。」
何がいいたいのか分からない。対抗馬?今更意見を公募でもして募り出すのだろうか?私が首をひねっていると、ちょうど部長と目が合った。
「興梠君。あんだけ勇気がいるタイミングで手を挙げたんだから、何かしら抱えている企画やらがあるんだろ?」
「え?」
完全に油断しきっていた喉元から思わず素っ頓狂な音が出る。
「いや、私は特に、えーと。特集を決める上で販売とか売上だとか、そうした事は気にしないでいいのかなと・・・」
しどろもどろに答える声を部長は聞くふりはするものの、全く気にする素振りがない。
「なに、そう遠慮することはない。そうだ、一年生の三名もここで本格的に我が部に慣れてきたころだと思うし、三人で協力しあって今回の企画に対抗しうるアイデアを出してみないか。期限は二週間後の部会での発表にしよう。企画書は遠藤さんが作ったような分厚さはなくていい。A4ペーパー1枚あれば企画は伝わる。特集の決定が二週間くらい遅くなったところで進行に問題はない。そうだろう?」
一部問題が出そうな進行担当の部員からの苦笑が聞こえる。なんとかしますよ、という意味合いも含んでいるようだった。
「申し訳ない。遠藤副部長もそれでいいかな?」
「はい、楽しみにしています。」
彼女は私を見据えながら、口角を少し上げ目を細める。その表情は一見して美しい笑みに見えるが、まったく違う何かにも見える。そこで気づく。これは、絶対に逃げられないことになった。
「なら決まりだ。本来、部全体としての打ち合わせは来週ないのだけれど臨時の打ち合わせを持とう。教室と時間は同じくここで集合。忙しいところ悪いが集合してほしい。興梠君と、春日君、君津君、多少大変かと思うが是非力を併せて頑張ってほしい。何かマズイことがあれば、先輩の誰かに相談するんだよ。」
一方的で残酷な通達。一年生は三人とも口を挟む余裕すらなかった。
「じゃあ、そろそろ時間もオーバーして遅くなってきたし、この後の打ち合わせはなしとします。今日のところは解散。お疲れさまでした。さてみんな帰った、帰った。」
高山部長はそう言い切って、早々に席を立つ。呆然としていた私が発言する間もなく会議は終了しており、部員は徐々に岐路についていた。そんな中、松本先輩だけは颯爽と
「興梠さんってすっごく面白いじゃん。楽しみにしてるよ。」
とだけ言い放ちドアの外に消えた。
その姿を見送った後、ふと気づくと、帰宅する準備を終えた春日さんと君津が目の前に立っていた。春日さんは先ほどの泣きそうな表情が、より一層泣きそうになっていて、君津はなんていうかすごい顔だった。その後方、薄ら笑いを浮かべた多田が我々に手を上げ「ま、頑張ってよ」と言いたげに教室を去るのが視野に入った。絶対にあいつだけは許さないと誓った。
これが事の始まり。そういや、部長は私が意見をしたことを勇気があると褒めていたのに、結果だけ見れば、公開罰ゲームを与えて遠藤副部長の溜飲を下げただけのようにも思える。その時は勢いで流れてしまっていたが、よくよく思い返してみると疑わしい。
ただ、今更同期二人に対してそんなことを言っても不満感が増すだけで仕方がない。とうとう本格的な雨が振り出し、地面を叩きつける音が延々聞こえる。この日の授業が終わった夕方、昨日と同じ文学部棟の教室に集まってもらった。そこで改めて頭を下げ、一年生臨時会議を開催することにした。
「いや、どうしようか本当に。」
スマートフォンの着信履歴を眺めながら、つい本音がついて出る。
「私が言うのも何なのだけれど、春日さんと君津は何かやりたい企画とかないの?」
無理やり話を君津に振ってみる。
「本当に興梠に言われると癪だな。」
「君津君、まぁまぁ。」
いつもと違い私に何も言う権利がないのを察知した春日さんが、すかさず宥めて話題を変えてくれた。
「私なら、なんやろなぁ。そういえば駅前に新しいパン屋さんが出来てたけど、学校の近隣の美味しいパン屋さん特集とかやってみたいわぁ。実際大学の近くにも、塩パンが絶品のお店があって、この前雑誌にも取り上げられたし。」
この場にそぐわないほどあまりに平和な案と、焼き立てパンを想像しているのだろうか、既に顔が綻んでいる。天然なのか、あるいは狙ってやっているのか。彼女を見ているだけで、この殺伐とした気持ちが和らいでいくようだった。そんな貴重な存在に対し、このデリカシーのない男が投げ返す。
「前々から少し疑問に感じていたのだが、春日氏はジャーナリズム研究会に何故入ったんだ・・・」
まあ、確かにそれは気になる。
「ひどいなぁ。わたし、そういう雑誌を作る人になるのが夢なんよ。出版社への就職のこと考えて、マスコミ研究会入ったとしても、そこでグルメ特集とか北欧家具特集とか絶対組めないのなら嫌やなって。そうすると、ジャーナリズム研究会のほうがまだ可能性は高いやん?」
思った以上に明確な野望に面食らう二人。彼女の言う通り、国際情勢や経済問題を扱い続けるもう一方の意識の高い団体で「おいしいパン特集」「春を先取り新色コーデ着回し」みたいな取材記事が掲載されているのは想像しにくい。対してジャーナリズム研究会は基本的にバーリトゥードだ。全員が納得し、企画にさえブレがなければ良い。表紙に既定のロゴデザインさえ残せば全て許されるのが我が団体の方針である。春日さんが企画をしたファンシーな特集の「SAJAM」も読んでみたい、が、今回のタイミングで彼女の希望を案にして押し通すには、多少申し訳ない気がした。
「めっちゃいいと思う。でも、ここまで私が風呂敷を広げてしまった末に、パン屋特集は・・・遠藤副部長の嘲笑する顔が浮かぶわ。いや、案が下らないとかじゃなくてよ?逆に春日さん渾身のアイデアはちゃんとした機会に取っておこうよ。」
「確かにあのピリピリした後に、これをプレゼンする勇気は私もないわ。」
しょんぼりしながら笑う春日さんも完成度が高い。
「そういう訳で今回は、多少でも学術に関すること、あるいは社会派の企画を持参した方がいいのかもしれない。君津はなんかないの。」
「そうだな。」
一瞬身構えたが、憎まれ口は挟まれなかった。彼は少し黙ってから、
「遠藤副部長が自分の専門をぶつけてきているのだから、我々も専門的に学ぼうとしている事をぶつけたほうがいいだろう。無論、既に三年生かつゼミに所属し専門的に研究している彼女との実力差は途方もなく大きい。そうだとしても、趣味レベルの事だったり完全に別の分野から無理に案を引っ張ってくるより遥かにマシだろう。俺は社会学だが、その中で宗教学を専攻にするつもりだ。もしそのテーマで進めるにしても幅が広すぎる。企画をそこからどう組むかだが。」
「ふむ、なるほどね。」
「君津君さすがやなあ。」
真っ当な意見だった。部長の発言をそのまま受け取るならば、今回の私たちはあくまでも遠藤の企画に対する当て馬なのだ。ひっくり返すにも突飛な案で奇をてらうよりは、真っ向勝負でそれぞれの学問に関連する角度から攻めたほうがいいかもしれない。
「そう考えると、私は法学部だけどそこからカルチャー雑誌の特集を組むと考えると硬すぎるかな。今回は君津の専門からトピックを拾って企画を深めていく方が無難かもしれないわ。さて、宗教学といっても仏教からキリスト教、イスラム、新宗教と幅がめちゃくちゃ広い中でどう企画にしたものか。」
アウトラインが何もない野放図な状態から、進むべき方向性が見えた分だけ多少楽になった気がした。しかし、企画を立ち上げるのはここからが本番である。真に作りたいものでありながら、不特定多数の人間も面白いと感じるであろうものを選択し、内容を深めていく。ものづくり全般に通じる一番の醍醐味だけれど、同時に一番の難事業だ。
「マニアックにしすぎても、本として手に取る上で引っ掛かりが弱い。どこかの誰かが遠藤みどりを非難したままの構図、ミイラ取りがミイラになってしまうわけだ。」
「悪かったわね。選択肢を狭めてしまって。」
「かといって、一定の深い知識に基づかないとそもそも面白味すらないだろう。」
「その加減が一番の課題よね。私たちの薄い専門性でどこに落としどころを見出すのか。視点を決めるのがほんと難しいわ。」
いくつかの案を出すものの一向に纏まらない。
「多分私たちに今不足しているものは、なんていうかこう、リビドーってやつ?絶対にこれをしなければならないという熱量みたいな。具体的にいえば、遠藤みどりみたいな執念よね・・・」
それにしても序盤で方向性だけ決められたが、それ以降の行先が見えてこない。こうなるとその方向性すら正しいものなのか疑問が生じてしまう。しっくり来る案も浮かばず時間だけが過ぎていく。
気づけば窓の外の景色も重苦しい墨一色となり、雨がパラつき始めていた。今日はひとまず散会という雰囲気が支配する。
するとノートの上に置かれた私のスマートフォンが震えた。私は少し眺めてから手に取り、表示された名前に心の中で舌打ちを打つ。いつだってタイミングが悪いのだこの人は。静まり返る教室に響き続ける低音のバイブレーション。露骨な無視を続ける私に、真面目な春日さんが恐る恐る話しかけてくる。
「あんな、由香ちゃん、見るつもりはなかったんよ?でも、一瞬見えちゃって。こういうのって絶対、余計なお世話な気がすんねんけど、お昼もお母さんの着信、スルーしてたよね・・・出てあげへんの?」
相変わらずスピード感のない関西弁、責めるでもなく私を気遣う実直な言葉だった。言い終わる頃には、電話は切れていた。流石に、着信に対して露骨な無視を続けると気にされてしまう。
「ありがとう、でもお察しの通りで。あの人とは関係性が完全に拗れてるんだよね。一人暮らし始めてから会話していないし、今後もあまり会話したくないんだ。」
「そっか、なんかごめんな。」
申し訳なさそうに微笑む。こういう件は短くハッキリ言ってしまった方がいい。シンプルに状態を伝える事こそが最適解なのだ。友人であろうと、いや、友人であるからこそ、この手の話題は踏み込みづらい。こちらは余計な感情を抱かずに済むし、彼女からすれば私との関係性をわざわざリスクに晒すこともない。一旦、事が収まったと思った矢先、君津が訝し気な目でこっちを見ている。
「おい、このまま打ち合わせを続けるつもりか?」
「どういうこと?」
やけに君津の声に棘があるのを感じ、つい私も喧嘩腰で返してしまう。
「今日はこれ以上案も出ないし、散会したほうがいいってことでしょ?分かってるわよ。今日のところは一旦お開きにしましょう、また明日にでも各々が考えてきたテーマを・・・」
話を纏めかかっているところに、冷や水をかけられた。
「違う。母親からの電話の件だ。返してやらんのか。」
表情ひとつ変わらなかった。この変人は、先のやりとりを見て決して他人が茶化せるような話題ではないと気づかなかったのだろうか。
「君津ね・・・あんたどんだけ空気読めないのよ。さっき春日さんにも伝えた通りよ、関係性が拗れていて、会話もしたくない。だから電話にも出たくない。それ以上私に何を求めるのよ。友人でも踏み込んじゃいけない場所ってあるでしょ?それでお終いでいいじゃない。」
ついつい触れたくない話題に声が大きくなる。こいつは全く意に介せず、冷たいトーンのまま返してくる。
「思ったことはハッキリと言わせてもらう。こんな事で拗れる心配をするような関係こそ不要だ。」
「な・・・」
私と春日さんが思わぬ直球にたじろいだのを見て、すかさず急所を刺しに来る。
「第一、企画の会議に懸念事項を抱えたまま参加したところで、妙案が浮かぶはずがないだろう。そもそも人間はマルチタスクに向いていないのだからな。興梠、お前の中で完全に割り切れているのならば、母親からの電話が鳴りやむまで待つような真似はしない。さっさと切ってしまえばいい。そうじゃないか?」
このクソメガネは私の性格を踏まえて諫めてくる。その上で追及を強めた。
「昼の食堂でも鳴ったままの電話を鞄にしまっていたな。何かしら、無視をすることに後ろめたさを抱えているんじゃないのか。考え事が重なった中途半端な人間というものは、ロクな判断をしないぞ。」
分かっていた。正直言えば、まず電話などかけてこない母からの電話。内容については私だって昼からずっと気になっていたのだ。もはや理屈の権化と化した男から聞きたくもない正論がまだ降りかかってくる。
「そもそも。今、我々が巻き込まれている件はお前が持ってきた面倒だ。立場上解決する為に助力するのは構わんが、自身がその覚悟くらい決めたらどうなんだ。」
思った以上の厳しい言及に春日さんも案の定、おろおろしながらこちらを見ている。君津も言葉は厳しいが、ソワソワしていた私を心配していたようにも聞こえた。しばらく黙っていたが、安易な言葉でやり過ごせるような逃げ場はなかった。
「・・・分かったわよ。電話すりゃいいんでしょ。」
言い捨てるようにして、スマートフォンだけを持って教室から飛び出した。内心を見透かされていた恥ずかしさと、実際にこれから母親に電話をかける気の重さに耐えられなくなったのだった。
「ほんと、この人からの電話なんて。出たところでいい事、何ひとつないのに。」
誰に言うでもなく呟いてから、着信履歴の画面を開く。教室から一番近い階段を半分降り、踊り場で立ち止まる。さっき降り出した雨は強くなっていて、雨音が鬱陶しく耳に絡まる。
君津の言葉は正論だったが、私にも言いたいことがあった。母からの着信。一緒に住んでいるころから数えても数回しかなかった。一人暮らしをし始めてからは、今回が初めて。母とはもともと会話のない関係であり、電話がかかってくるときは決まって、私に伝えるべきか迷った末にかけてくる。つまり、彼女からの電話の内容は、肉親という建前上、伝えなければならないニュースだということだ。大きく深呼吸をしてから「母」と書かれた文字を人差し指でなぞる。ディスプレイ上部に耳を当て、呼び出し音が抑揚もなく三度。後に、彼女が出た。
「・・・由香。電話してくれたのね。」
先ほどまで何を話そうかと考えていたことが、その声を聞いた瞬間に溶けていくようだった。
「・・・で、今回の要件は何。」
真っ白な頭でできる限り冷静な対応を心がけると、心底冷たい言葉が口から飛び出てしまう。この人との会話はいつもそうだった。
私が教室に戻ると、そこで待っていた二人は一旦状況を伺う。教室の敷居を前にして、言うべき言葉を探している私を、春日さんが先手を打って迎えた。
「おかえり。」
そして、君津も重ねた。
「で、なんの案件だったんだ。」
「君津くん!」
春日さんはノータイムで君津の頭をはたいた。食い気味に名前を叫ばれた君津の肩が反射で動くと同時の早業。
「由香ちゃん、あれだけ決意固めて電話したんやで?即聞き出すやつがおるか!」
驚きと共に激昂した彼女の表情が、普段とはかけ離れていてつい笑ってしまった。一生のうちに見れるかどうが分からない珍しい光景に、先ほどまでの重苦しい雰囲気は崩れた。
「春日さんも、人を殴るんだね。つい笑っちゃった。」
殴られた君津も目を丸くしている。
「まさか春日氏に殴られるとはな。」
「さすがにデリカシーなさすぎやろ、今のは。」
こんなに怒っている春日を見るのは二人とも初めてだった。その後もプンプンしている春日さんと君津のやりあいをしばらく眺めながら、しばらく腹を抱えていた。
「ごめんごめん、あー楽になったわ。」
目尻を指で拭いながら続ける。
「いや、でも君津に聞かれたとおり、隠し通すなんてことはしないわよ。そろそろ、私も内容を言わなきゃね。」
「由香ちゃん、無理に言わんでも。」
「ちょっと話自体は重たいけれど、私としては全然問題のない話題だったよ。うん、むしろ聞いてほしいくらい。」
止める彼女を逆に制して深呼吸をひとつ、覚悟を決めた。
「えーとね、端的に言えば・・・先日私の兄が亡くなった、という電話でした。」
一瞬の沈黙。
「え、お兄さんが・・・」
「それは気の毒な。」
それぞれ、追悼の言葉を探すのを興梠が遮る。
「いや・・・でも全然関係性が薄いというか・・・」
目線が泳ぐ。一瞬一瞬の間が私の意思に抵抗するかのように、言葉を遅らせる。
「更に、なんだけれど。私に兄がいるって今の電話で初めて知ったの。だから、悲しくもなんともないんだなこれが。電話ひとつに身構えすぎちゃった。ははは。」
乾いた笑いだけが薄暗い教室に響く。数秒して、ようやく言葉通りの意味が判別できたのか、春日さんが握りこぶしを固め、意を決したように聞いてきた。
「初めてって・・・?まさか由香ちゃん、お兄さんがいるってこと、何も聞かされてなかったの?」
無性に責められたようで、私はなんだかバツが悪い心地で、ぼそりと口を開いた。
「まあ、あの人再婚してるからね。前の旦那、つまり私の本当の父親のことも含めて、ほとんど当時のことは教えてくれなくて。よほど色々あったんじゃない?だから、そういう事があっても不思議じゃないというか。」
どちらかと言えば、それは説明というより自分への説得だった。
「それでいて、告別式だけでもいいから参列してくれとか言われてもね。人って、一度に受け取る情報量が多すぎると特段何も感じないんだね。」
私の視線は適当な虚空を泳いだのち、ぼんやりと窓の外に向かった。少し泣いてしまったのがバレただろうか。強がる言葉にまるで説得力がないと自分でも分かった。君津が多少気まずそうにしながら、私に合わせた目線を逸らさないよう続けた。
「それは驚いたな。知らない兄か・・・で、どうするんだ。葬儀には行くのか。」
「ちょっと考える。でも少し考えたら、断るつもり。知らない兄貴の葬式なんてね。他の参列者から実の妹と思われても、どんな顔で行けばいいのか分からないし。そもそも、今の今まで黙っていたあの人と顔を合わせること自体、我慢できるかどうか。」
春日さんも、勢い余ってこんな入り組んだ事情を聞いてしまったことへの自責と、それを受けて手助け出来そうもない状況に、やはり泣きそうな顔で俯いている。急に君津が声を張った。
「なるほど。ただ葬儀に行くにしろ、行かないにしろ。知らない兄だろうと、お前は喪中だ。」
この不器用な男にしては、精一杯の優しいトーンだった。
「部の企画発表の件は一度忘れろ。高山部長には俺から言う。」
「ちょっと待って。」
途中でさえぎるように、私は彼を制した。
「これは私の問題・・・いや、ここまで迷惑ごとに巻き込んでおいてそれはないか。君津、春日さん、心配かけてばかりで本当にごめん。でも、考え事が重なった人間はロクな判断をしないって、さっきアンタが言ってた事じゃない。今の私がまさにそう。まぁ、偉そうに言うことじゃないわね。」
場違いな笑いが漏れた。
「だから、この件は少し預からせて。早々に返事はするつもりだから。参列をちゃんと断ることが出来たら、多分この件も前に進める気がするの。もしダメだったら私から部長に頭下げに行く。お願い。」
まっすぐ君津を見据えた。隣から泣くのを必死で抑えたような声が聞こえる。
「ゆかちゃん、私も行く。君津君もね、いっしょだからね!」
春日さんは既に目に大きな涙を溜めていた。君津も渋々、といった様子で返答する。
「わかった。ただし一人で考えすぎたりするなよ、時間だけかかって余計に迷惑だからな。」
「なぁ、言い方!」
先ほどの一撃で勢いづいたのか、またもや彼女は涙目のまま君津の肩をどつく。逆に、こんな状況下でも憎まれ口を叩けるのならと安心した。
時間も遅くなり、ひとまずこれ以上話しても先に進まないということで、企画の草案作りは宿題にしてこの日は散会となった。思えば、企画を決定づける打ち合わせのはずが、気づけば、我々にとって問題事は余計に増え、その上、一旦葬儀の問題が片付くまで打合せも保留となってしまった。
私は、大学を出て家に向かう夜道を歩きながら、君津に言われたことや、春日さんの泣き顔、そして平坦な母の声を順繰りに思い出していた。
「雑誌の企画を立ち上げるって楽勝と思ってたのにな。」
ぼそりと呟く。ただ、今日の出来事を独りでなく、三人で受け止められたからこそ、進むべき方向性が見えたのかもしれない。文学部棟の出口から外の気配をうかがうと、雨は少しだけ弱まっていた。彼女は、多少ながら救われた気持ちで家路についた。
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