第8話
4/14、火曜日。
昼休みのひと悶着を知っている人がいたらどうしよう。羽衣さんには本当のことを言わないほうがいいよな、何て言い訳しようかなと考えながら部室に入った。
が、誰にも何も言及されることはなく、ミーティングが始まった。取り越し苦労に終わったのだからヨシとすべきなのだろうけれども、ちょっと誰かに知っていて欲しかったとも思ってしまうところがあるのはなぜだろう。
「今日は、ドリンク準備以外に目ぼしい仕事がないのでネット補修をしましょう」
いつものように、ボールペンの簪を髪にぶっ刺した副部長が言った。
「ネットホシュウ?」
「防球ネットの穴とかほつれを直すことだよ」
ほぼ真正面に立つ浜浦さんが、知らないの? とでも言わんがばかりの目を向けてきた。
心外です、と声を大にして言いたい。ちょっと、脳内の漢字変換が上手くできてなかっただけです。情報の授業の補習かと思っただけです、と。
「は、はい」
……まぁ、実際に口をついて出てくるのは、委縮した短い返事だけだけれども。畜生、悔しい。
「それじゃ、2年生がドリンク班ね。3年と光太はネット補修。今日も頑張っていきましょう!」
「はーい」
「はい」
「よろしくお願いします」
思い思いの返事が部室に飛び交った。下げた頭を戻したときには、既に全員が動き出していた。1年の俺が遅れるわけにはいかないから、戸の向こうへと消えて行く先輩たちを追う。
「どのへんやるのー?」
「この前やってないのは、ティー用とブルペンか?」
「ブルペンは、ぶちょーがやってくれるよね?」
「あーはいはい、知ってたよ、俺は。そうくるって!」
「え、ブルペンで穴開いてるとこあんの? 危なくない?」
「はいはーい、あるの知ってるー! キャッチャーのすぐ後ろ」
「うっそ、一番ダメなとこじゃん。頼むわ部長」
「分かっとるわ!」
横一列に並んで話している3年生の輪に入っていいのかどうかが分からず、少し後ろをついて行く。俺が黙っていたせいか、すぐに副部長が振り返って
「ね、光太」
と、声をかけてくれた。あの、そういうとこ、マジで好きです。
「はい」
周りを気にすることもなく、俺のほうを向いたまま後ろ歩きで進んで行く。この人、意外と器用だな。
「今日は私に付き合ってね!」
「はえ、あ?!」
どういう意味ですかと聞くより早く、「こう見えてネット補修は部内一、得意なのよ」と、ジャージをまくって力こぶを作る真似をされた。細い二の腕に筋肉が盛り上がる気配はない。何ですかソレ。めちゃくちゃ可愛いんですけど、どういうつもりなんです?
「光太、中学も野球部だったんでしょ? ネット補修、やったことある?」
「いや……あの、ないです」
期待に応えられなくてすみませんと言いそうになったところで、「そりゃそうか」と笑われたので口を閉じ直した。
「防球ネットって、打球とか当たり続けると穴が開くことあるでしょ? そこを、補修用のネットで塞いでいくんだけど」
「はい」
「教えるから、ちゃんっと、やり方、聞いといてね」
マジで重要だから、と念を押された。目が切れ長だから、きゅっと眉間に力が入っただけでそりゃあもう、睨まれてるのかと思ってしまう。そんなことないですよね?! 怖いのは2年生のお2人だけで充分ですと言いたい。3年生はオアシスです。いや嘘です副部長がオアシスです女神ですOh My ガサツな女神ですそのままでいてください頼むから。
「……は、はい」
「おけ。じゃ、行きまっしょーい」
よかった、祈りが通じたのかどうかは分からないけれども、いつものあっけらかんとした調子に戻ってくれた。ついでに前に向き直されたので、ホッとして溜め息が漏れた。
キレイな見た目と相反して、とにかくテキトーな感じの人だと思ってたけど、また違う一面もあるのかな。そういうギャップは怖いからやめていただければ幸いです。
グラウンドの隅を小さくなりながら3年生に続いて歩く。すぐ横では野球部がアップをしているというのに、俺はどぎついピンクのジャージでぽてぽて歩いているだけ。これが本当に、甲子園に繋がっているのか。甚だ謎でしかない。こんなことをしていていいのかと自問自答せざるを得ない心境になってくる。
それでも、こんな俺を含めたどピンク集団が見えれば、名門野球部はみんな帽子を脱いで会釈をくれる。存在を認められている、という事実が途方もなく嬉しい。いい意味で泣きたくなってくる。躁鬱混合状態だって? やかましいわ、モラトリアム思春期真っ只中なだけじゃい。
上がり下がりする感情の波と戦いながら機材置き場まで辿り着くと、羽衣さんに「はーい、一人イッコずつー」と、緑の筒を手渡された。防球ネットの編み紐だ。トイレットペーパーの芯みたいな筒の周りに、ナイロン製の紐が巻きつけられている。毛糸玉っぽいし、猫にあげたら喜びそうだな。
空洞状の芯の内側には、大きなハサミが差し込まれていた。
「はい」
差し出されるまま受け取ると、部長は「頑張れよ」と言って機材置き場から出て行ってしまった。図らずも、両手に一軍女子の現状。美味しいのか気まずいのかちっとも分からないシチュエーションだ。
「さて。ここに、ずらりと並んだトスバッティング用のゲージがあります」
1台のゲージに凭れ掛かりながら、副部長が教員みたいな説明口調で語り出した。
「はい」
「ご覧の通り、ちょこちょこ穴が開いています。分かる? ココとか、あとここ。ほつれてるの」
「あぁ、はい」
「こういうところに、新しい紐を括り付けて穴を埋めていきます。これがネット補修ね。まずは私のやり方、横で見てて」
と手招きされ、奥へと進む。この辺りでいいかなと足を止めると、
「そんなところじゃ見えないでしょ」
と袖を引っ張られた。手が触れる距離だって? 違う、肩が当たる距離だ。女子が嫌がりそうな言い方するなら、毛穴が見えるくらいの距離。
「え、あの」
「いーから、見ててよ? 約束したでしょ?」
「は、はい!」
こんな間近に美人の顔がある経験なんて、生まれて初めてすぎて。パソコンとかスマホがこの距離にあったら「顔が近い!」って指導されるレベルなんだけど、この距離から離れるな? 初めて言われましたけど、そんなの。
にしても、これだけ側で拝見しても造形美の崩れない顔って何なんだろう。髪も肌もつやっつやだし、睫毛もそんなに育つことあるのかと驚くほど長くてしなやかだ。頭のボールペンを伝って、毛束が一つ落ちてきた。それだけでドキドキしてしまう。砂埃の匂いに混じって花みたいな香りもする。これ、健全な男子高校生にはダメなやつですよ、多分。
「イクラちゃんはスパルタだからねー」
「へ?!」
お花畑みたいな妄想を始めていた分、スパルタという響きに心臓が跳ねた。さっきのあの、いつもと違うザ・気の強い一軍女子! って感じのテンションで指導されるのだろうか?
「だいじょーぶ、あんまり怖いことするようなら、私が怒ってあげるから!」
「失礼なのよ、アンタは」
オドオドしすぎていたのだろう、羽衣さんがフォローらしきことを言ってくれる。副部長はと言えば、軽く笑って「目を逸らさないで、ちゃんと見ててね」と人差し指を立てた。
俺は……口説かれてるのか? いや勘違い? ですよね、うん、知ってる。でも、ちゃんと見ますよ、そこは喜んで。ハイ。
***
「で、この紐を裏から持ってくる、と。どう? できる?」
「分かりません……」
「じゃ、もう一回最初からいくよー」
「すみません……」
何回目かも分からないもう一回を聞き、やはり何回目か分からないすみませんを口にし、ネット補修の補習を願い出る。
全ッ然分からない、何だこれ?!
防球ネットは文字通り、防具を付けていない人たちに硬球が当たらないようグラウンドやブルペンなんかに張り巡らされる網だ。
その網に、打球や送球が何度も激しくぶつかれば、紐が擦りきれて穴が開いてくる。その穴を塞ぐため、紐を追加して編み直す作業をしているわけだが―― できない。副部長がやっているのを見る分には理解できるし、説明も分かるのに、なぜだろう。実際にやってみると、なかなか上手くいかない。
「もう一度。左の紐を曲げて、その下からもう片方を出して……うーん、ちょっと休憩しようか」
「はい……」
ネットと睨めっこする俺に気を遣ってくれたらしい。俺は、またしても喉から出かかったスミマセンを堪え、唾を飲んだ。
単純に結ぶだけならできる。が、副部長が指導してくれている『一重継ぎ』とか『もやい結び』とか呼ばれる結び方でなければ、結び目が網を滑って上下左右に簡単に移動してしまい、補修の意味がないという。このもやい結びが難しいのだ。
しっかり聞いて、手元を見て、方法をきちんと理解している……つもりだが、それを再現できるかといえば、話は別で全然できない。美人が近くにいるとか言ってドキドキしてる場合じゃなかった。違う意味でパニックだ。
「ふふ、私もきゅーけー。トイレ行ってくるねん」
肩凝ったー、と言い残して、羽衣さんはふらふら機材置き場を出て行く。何となく空気が重たい。こういうときに限って、不用意に2人切りになるんだから気まずいったらない。
副部長がふう、と溜め息を零した。それだけで胃が痛くなる。出来損ないでごめんなさい。頭の中はそれしかない。
コンクリートの屋根があるだけで、機材置き場はグラウンドの側にあると思えないほど暗い。暑いぐらいの好天で、練習中の野球部は太陽に愛されているかの如く明るい輝きを放っている。一方で、ここは厚い雲に覆われている感じがしてならない。数メートル先とは別世界? 雲泥の差があった。
こんなに近くにいるのに、俺はもう、あのキラキラの中に入れない。大きな声でボールを呼び、仲間を呼び、ありがとうございましたと叫ぶことができない。改めてそう思うと、鼻の奥がつきんと狭くなった。
「ね、ちょっと座ったら?」
立ちっぱなしじゃん、と言われて苦笑いが漏れた。にしても、コンビニ前にいるヤンキーみたいな格好でしゃがみ込んでいる副部長にそう言われると、ヤキを入れられるんじゃないかと疑いたくなる。やっぱりピンクジャージはよくないと思うな。
とにもかくにも、一つ頷いて俺も腰を下ろすことにした。
花なのかフルーツなのか、よく分からないけど爽やかで大人びた香りが漂ってくるから女子ってすごい。上手く言えないけど、そういうところがズルい。
というかヤバい、俺、汗臭くないか?! こんな至近距離で話すことがあるなんて想像してなかった。今日は制汗スプレーを買って帰ろう。
いい香りを放つド級の美人と、いったい何を話せばいいのか? 分からない。沈黙の隙間を埋めるように、野球部の声が響いた。俺もあぁやって、「一塁」とか「バックフォーム!」とか、言えればよかった。そしたら、こんなことには―― 。
「ごめんね」
「え?!」
「教え方、下手くそで」
眉尻を下げて、唇を尖らせた。切ない表情に胸の奥が痛くなる。違うんです、あなたは何も悪くないんです。
「違います、俺がその、何もできなくて……」
「そんなことないよ。最初は誰でも難しいって、これ」
キィン。
重苦しい空気をつんざく、金属バットの音。
「頑張るからさ、どこにもいかないでね?」
「……え?!」
「1年生、1人だけだもん。辞めないで、光太。大事にするから」
お願いよ、だなんて、何ですかそれ。やっぱり口説かれてますよね? 俺。
「あ、は、はい……」
頬が勝手に熱く、赤くなる。
「よかった」
なんて言われたら、やっぱり野球部に入りたかったと思ってしまったことが申し訳なくなってくる。何もできない美人でもない俺でも、歓迎してくれているのかな。ここにいてもいいのかな、俺。
「ね、しよっか? 続き」
「はい!」
副部長が立ち上がった。俺も続いて頷いた。夏はまだまだ先のはずなのに、身体が火照って、熱かった。
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