第6話
どピンクのジャージが入ったトートは、やけに重たく感じる。教科書一式が入ったリュックよりも圧倒的にずしっとくるのだから、確実に精神的なものが原因だ。
「マネージャーになったとは確かに聞いたけど……これ、本当にアンタのジャージなの?」
金曜の夜、母親に真剣な顔でそう聞かれて泣きたくなった。アンタもしかして、本当は女子として学校に通いたいとか? とまで言い出したときは焦りを通り越して絶望した。青と黒しか私服のレパートリーを持たない俺がこんな色のジャージを持ち帰れば、そりゃあ、家族だってびっくりしてよく分からない詮索をしたくもなるだろう。俺が俺の親でも、多分、する。
とはいえ、今はそんな家族の気遣いすら、傷を抉られる思いで受け止める他ない心境だ。
月曜日。土日を挟んだらリフレッシュできる……かと思ったものの、そんなに上手くいくわけがなかった。がんがんにブルーマンデーで1日を過ごした末、3日前と同じようにトイレに駆け込んだ。
気乗りしないまま、ヤンキージャージに袖を通す。屋外トイレで着替えるなんて、苛めにでも合っている気分だ。もし俺以外の生徒がこんなことをしていたら、声を掛けてやるべきだろう。俺以外の生徒なら、だ。
ピンクのジャージで校内を歩くのは、いくら放課後と言ってもやっぱり気恥ずかしい。周りから隠れたい一心で、部室に駆け込んだ。
「失礼します」
戸を引いた直後、何かが飛んできた。
「今開けんな、バカ光太!」
「ぐっ!」
眉間に何か、固いものが当たった。がちゃがちゃっという音を立てて、鼻を滑り台のように滑走していく。クリアケース状のペンケースだった。
痛いじゃないですか、何すんですか! と言うべきところだったのに、顔を上げた先の光景で用意した台詞が全部飛んだ。清末さんの格好のせいだ。
キャミソールってやつだよな? これ。にしても胸元ぱっくり開き過ぎじゃないか? ほとんどブラが見えるくらいのところまで開いてるもんなの?
見えた肌の色は黒と白でキレイに分かれている。すごいコントラストだ。すごすぎて、白い部分は本来なら「見ちゃいけないところ」なんだという感がすごい。地黒ってわけじゃないんですね、すごい。びっくりしました、すみません。……なんて、「すごい」以外の語彙力を失ってる場合じゃなかった。
「早く閉めろっての!」
と叫ばれる程度にはとんでもない事態になっていたのに、そこに思考が追い付ていなかった。ラッキースケベ? 冗談じゃない、どこが幸運なんだ。期待していないハプニングでもラッキー扱いされるのか? 大きなお世話だ。
「すみません!」
引き戸をさっきとは反対にスライドさせながら、大声で返す。勢いよく戸が閉まり、手の中に収まっていたペンケースがケタケタ笑い始めた。
「何してんだ? お前」
「いやっ?! あの!」
違うんです不審者じゃないんですマネージャーの格好してマネ部に乗り込もうとした変態とかじゃありません! とか何とか言うべきなのか焦る程度には混乱している。だって、突然背後から野太い声で職質じみたことを尋ねられたら、そうなるだろ?!
しかし、謎の言い訳が口をついて出てくるよりも先に、相手がピンクのジャージの大男であることに気が付いた。
「って、部長?!」
「おう」
俺に向かって軽く右手を上げると、部長はそのまま、遠慮も躊躇いもなくサッシをどんどんノックした。
「豊浦だー。開けていいかー?」
「いーっすよー」
すぐに中から間延びした返事がきた。ノックしないお前が悪いんだよと、サッシが俺を嘲笑いながらガラガラ、レールを走っていく。何だろう、この、得も言われぬ敗北感と徒労感は。
「で? 光太は何で突っ立ってたんだ?」
今日も今日とて頭を抱える事態から始まった放課後に、「何でもないです……」以外の言葉を吐く気力もなかった。
***
4月13日、月曜日。本日は「草むしり」を命ぜられた。いやただの雑用係だな?! というショックがないと言えば嘘になる。が、致し方ない。なぜなら、俺だけではないからだ。
3年生全員+俺の4人でブルペンからグラウンド周りの草むしりと、塩化カルシウム散布というのが本日の活動内容らしい。
「愛美とさやかは遠征の片付けとビデオチェックお願いね。それじゃ、本日も頑張っていきましょう!」
と退室を促されて、こっちだよーと手を振る天女に誘われて体育教官室へと向かう。一足先についていたらしい部長から、無言で鎌とバケツを手渡された。厳つい見た目も相まって、めちゃくちゃ怖い。
「こっち来い」
「は、はいっ……」
手招きされるがまま、後ろをついて行く。すぐ後ろから、俺を追い掛けるようにして副部長と羽衣さんがついて来た。美人と足並みをそろえていても、嬉しいどころか生きた心地がしない。俺、この部活、野球より向いてないかも。
「分かってると思うけど、今立ってるここが、グラウンドの南側な」
部長が、自分の使う分らしい鎌を振りながら言う。危ないでしょ、それ。やめてください。
「はい」
内心ヒヤヒヤしながら頷く。
「んで、ここから一番遠い、バックネットからブルペンにかけてが北側」
「はぁ」
それくらいは分かる。これでも文武両道の進学校に、学力で合格した身だから。
「ウチのグラウンドはほぼ真四角だから、4辺どこでも、だいたい同じくらいの長さになる。というわけで、東西南北、どこの辺を草むしりして歩くか、ジャンケンな。恨みっこなしで」
「はぁ……い?!」
いやそれ、距離で分けてるだけで草の量はまったく違いませんかね?! と異論を唱えたかったけれども、時すでに遅しだった。副部長がもう、「さいしょはぐー」と言って拳を振っていた。じゃんけんぽんっという掛け声に合わせて、慌てて出した手は案の定とでもいうのか一人負けだった。
「あー……どんまい。じゃ、北側よろしく」
部長直々に言われた。
東西南北の4辺は、確かに長さは同じくらいかもしれない。が、むしるほどの草があるのはどう見てもブルペン周辺からバックネットにかけてのみだ。西側も少しはフェンス沿いに雑草の姿が見えているものの、体育教官室やトイレ、渡り廊下なんかと接している南辺や、脇に裏門へと続く小道が整備されている東辺には、ほとんど草の姿などない。
一方で俺に割り振られたブルペン周辺は、膝どころか腰に近い丈の草が生い茂っている。まじですか、初回から俺にソコやらせるんですか、先輩方。
「こっち終わったら手伝いに行くからね」
頑張って、と副部長がポニーテールを揺らしながら遠ざかって行く。どうやら東側を担当するらしい。いつの間にか残りの3辺の割り振りも終わっていたらしい。美女たちと野獣は、それぞれの持ち場へと行ってしまった。
俺も立ち尽くしているわけにはいかない。マネージャーをやめていない以上はやらなければと、緑に染まったブルペンへ歩を進める。
副部長曰く、野球部は「今日は遠征明けで自主練デー」だそうだ。トレーニングルームは使えるものの、グラウンドは使用禁止だと言っていた。筋トレ以外はするなということだろう。だからこその草むしり、だからこその塩化カルシウム散布なのは分かる。分かるけれども、気は乗らない。
先週の活気が嘘のように、グラウンドは静まり返っている。
真四角の4辺のうち、東側の辺を北方向へと下校組がなぞって行く。裏門通学組だ。1組のカップルが副部長に話しかけた。同じクラスなのかな。会話の中身までは聞こえないけど、高らかな笑い声が響いている。
彼らをはじめ、裏門を目指す生徒たちはみんな、先週末よりもどこか堂々と歩いているように見えた。野球部の練習中は、グラウンドに気を遣いながら歩いてくれているのかもしれない。
野球部のため、なんて胸を張って言えるほどのことじゃなくても、「野球部のため」になることは、少なからずあるのだろう。草むしりも、その一つだといいのだけれども。その一つだと信じたい。
―― 軍手もバケツも鎌もあるから、草むしり自体はそこまで疲れるということほどでもない。ちょっと腰が痛くなる程度で、ベースランニングやシートノックに比べれば大したことじゃなかった。
ただ、つまらない。圧倒的につまらないのだ。ひたすら一人で草をむしるだけの放課後が過ぎて行く。これは青春と呼べるのか? 答えはノーだ。呼べるわけがない。俺は学校職員になったのか? 答えはノーだ。お給料なんてもらえてないからな!
「全然終わらないねぇ」
開始45分。副部長が来てくれた。首にタオルをかけていても、軍手と鎌を装備していても、美人は絵になるからすごい。俺の目の前の映像をそのままポスターにでもして、「農業やろう!」とか書いたらいいと思う。何がいいのかって? そんなの知るかですけれども。
「めちゃくちゃ……ありますね、ここ」
めちゃくちゃ汗かいててもキレイですねと言いかけた自分に引いている。熱中症か? 頭がおかしくなってる気がする。
「だねぇ。手伝うわ」
「あり、がとう、ございます……?」
「何でカタコトなの」
あははと笑う軽快さがとても心地いい。目が眩むほどの美人なのに、一緒にいても、他の先輩方の誰よりも緊張しないから不思議だ。好みじゃないから? んなワケあるか。万が一付き合って、とか何とか言われた日には、首が折れる勢いで頷くぞ。
「雑用係だと思ってるでしょー?」
「え?」
言いながら、副部長は手当たり次第に草を鎌で切って行く。ざくざくいう音は気持ちがいいけれども、刈り方、雑じゃないっすか?
「マネージャーって、雑用係みたいでしょ?」
「いや……」
そんなことは、とか何とか言おうと思ったけど、ダメだった。かと言って簡単に同意するのも失礼な気がする。と思ったのに、
「実際、雑用係だよねぇ、私たちって」
と、副部長のほうが言い出した。
「え?」
「自分が野球やるわけでも、お茶飲むわけでも、筋トレするわけでも部室使うわけでもないのにさ。グラウンド整えて、お茶用意して片付けて、遠征準備してあちこち掃除してさ。ぜーんぶ、人のため」
「……まぁ、そうですね……?」
「でもそれが性に合ってるっていう、奇特な奴もいるのよねぇ」
言外に自分たちみたいな、という意味合いが含まれているのが分かる。はたして、俺は“そう”なのだろうか? 自分ではまだ分からない。この人たちにもそれはまだ分かっていないだろう。まだ出会ったばかりだ、俺の向き不向きなんて分かるはずもない。
「そうじゃなくても、私みたいにコレが何か、いつか自分の役に立つと信じてる奴もいる」
「コレって……草むしりがですか?」
「うーん、草むしりを含む雑用が、かな?」
「そうなんですか?」
「そうなんですーだから私は楽しいんですーだから楽しくなさそうな光太は放っておけないんですー」
「……何ですか、それ」
うっかり吹き出してしまった。子どもみたいな人だな。どこからどう見てもクールビューティーでスレンダーのお手本みたいな人なのに、隙さえあれば道化を演じてくる。気遣いの天才? 食べ方ガサツなのに?
「今はモヤモヤしてるかもしれないけど、そのうち楽しくなるかもよってこと。やめときゃよかったって思ってるかもしれないけど、もう少し続けて欲しいな」
たった1人の貴重な1年生部員なんだから、と付け加えられては、ハイと言う他に道はない。合わせて首を縦に振る。
「さて。じゃ、私がどんどん刈って行くから、刈り取った草、バケツに集めて行って。早くしないとエンカル撒けない」
「えんかる?」
「塩化カルシウムのこと。撒くって言ったでしょ? 乾燥予防と防草材代わりに」
「あ、はい、そうでした!」
急がねばと思ったところで、甘ったるい声がグラウンドの反対側から聞こえてきた。ふわふわの髪を揺らしながら、ピンクジャージの仲間が手を振っている。
「そっち手伝うー? それとも、塩カル準備しとくー?」
「ほら、噂をすればだ」
「塩カルの噂ですか」
初めて聞いた、そんなの。
「塩カルよろしくー」
副部長が手を振り返す。羽衣さんは、両手で頭上にマルを作ってみせながら
「りょー」
と言った。すぐさま、副部長もマルを返す。何だこれ、女子ってこんな微笑ましいやり取りしてるのか。この場に居合わせられたことは至福だけれども、ここに混ざっちゃいけない気がする。俺、どう考えても異分子でしょうに。
そういうモヤモヤなら、確かにある。けれども、
「遅ればせながら手伝うぜぇ」
とやって来た部長を見ていると、まぁいいかという気がするのも事実だ。俺みたいなマネージャーが、いてもいいのか、悪いのか。俺には、まだ分からない。
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