第5話

2度目の逆トイレダッシュをかまして、ピンクに染まった部室に戻る。部室に入るだけなのに、なぜ俺はこんなにも人目を気にしなければならないのか。甚だ遺憾である。

「あら、おかえりなさい」

後ろ姿だった副部長が、こちらを振り返った。長い髪を指先にくるくる巻いて遊んでいる。と思ったら、塊になった髪をボールペンでざっくり突き刺した。簪代わりってこと? そんな真似ができるのか。女子の頭っていろんな意味でどうなってんだろう? 理解不能だ。項の美しさはそれ以上に意味不明だし。

露わになった耳たぶの後ろ辺りに小さな黒子があって、それがまた艶めかしい。そりゃ噛みつきたくもなるわってな話だ。吸血鬼の気持ちがよく分かる。国宝級の項です。世界遺産? はいはい認定認定。

「ホラ、似合ってんじゃん」

パリピらしい、適当な言い草だな。そもそも、似合ってても嬉しくないっすよ、別に。

「じゃ、どうにか全員そろったところでミーティング始めます。礼!」

「こんにちはー」

「こん、にちは……」

パリピさん……じゃなかった。清末さんに手招きされるがまま、彼女の隣に並んで一礼。合わせて声を出す。

この様子を端から見れば、ピンクを崇拝する宗教みたいなんだろうな。入信した記憶はないけど。

「今日は4月10日の金曜日。明日は練習試合の予定が組まれているので、その準備があります」

練習試合の準備って何だろう? ちょっとワクワクしてしまう。まるで高校球児になった気分だ。

「今週末ってどこだっけな。うちでやる系?」

「遠征。北倉戦」

北倉! 隣県の強豪校だ。3年前には、甲子園の2回戦で新和第一と対戦していた。あのときは確か、延長戦で新和第一が辛勝したんだっけ。練習試合と言っても、いい試合が見れそうだ。……と言っても、遠征は帯同不可だっけ。残念だけど見られないんだった。

「というわけで、今日は2年生がドリンク班ね。部長と私は機材班、理奈は、光太を連れて遠征準備と環境整備をお願いします」

「はい」

「はぁい」

「は、ひっ!」

声がひっくり返った。恥ずかしさで心臓も裏返った気がする。女子からコウタ呼ばわりされたのは幼稚園以来の気がする。しかもこんな、超一軍の美人の先輩からさらりと呼ばれるなんて。

「光太はしばらく、私たち3年の誰かと組んで行動してね。マネージャーが何をやるのか、実際にやってみながら慣れていってください。分からないことは何でも聞いてもらって大丈夫です。OK?」

「はっ、い!」

「OK! じゃあ理奈、頼むね」

「はぁーい」

理奈というのは、ゆるふわ美人の羽衣さんのことらしい。そういえば昨日聞いた気もするな。ゆるふわさんは教室で挙手する小学生みたいに、右手を高く上げている。無邪気で愛くるしい姿に、俺の脳みそはカワイイを大合唱し始める。

「手の空いた班は、ネット補修の続きをお願いします。じゃ、今日も頑張っていきまっしょう!」

「はい!」

おかげで反応が遅れて声を出せなかった。

でもそれをヤバいと思う間もなく、ピンクの集会の輪がしゅるりと解かれ

「コウタくん、行こ?」

とゆるふわ先輩に言われた。よろしくね、なんて笑われたら、こちらこそと言いたいところだけれども、いろんな意味でそれどころじゃなくなってくる。美形って本当、心臓に悪い。羽衣って、昔話で聞いたことある響きだな。あぁ、天女の羽衣だっけ? すごい、まさに名は体を表す的な人だ。

俺の思考が迷子になっている間に、天女は部室を出て行ってしまった。物理的な意味で迷子にならないよう、後を追った。


裏門は正門よりも駅に近い。電車通学組らしき下校の生徒たちが天女と俺を追い越して行く。時計を見るフリとか、落とし物を確認するフリとか、そういうのやめて。逆につらいからやめて。いっそ普通に振り返ればいいよ、美女とピンクのペアルックしてるアイツは何だ?!って。どのみち胃は痛いから。

ぐうっと両手を高く上げたり、欠伸をしたり、ネコを思い起こさせるようなペースで歩く天女に合わせて距離を取るのは結構、難しい。

「コウタくん、だっけ」

「はいっ」

「コウタって、どんな字書くの?」

「光るに、太いって書きます」

「サンズイ付くやつ?」

「サンズイは、なしです」

「普通の太い、なの? とっても細いのにねぇ」

「まぁ、そうですね。筋肉とか、つきにくい体質みたいで……」

「いいなぁ、私、太りやすくって」

「いえ、あの、細いと、思います」

「テーブルにいっつも、お菓子、並んでるでしょ? あれ、ほんとはもっと、いっぱい食べたいんだよね。でも悩んでると、いっつもほとんどイクラちゃんに持ってかれちゃうし」

「はぁ」

危ない、噴き出すところだった。まさか、副部長のあだ名がイクラちゃんとは。不意打ちだ。

羽衣さんのぽてっとした唇から出てくる話は、野球とちっとも関わりのないものばかりだ。これがガールズトークというやつだろうか? 聞き役に徹する以外、身の振り方の見当がつかない。

せっかくすぐ側で新和第一野球部が練習しているというのに、その姿すら目に入ってこない。おい俺、お前こんなのでいいのか?!

「イクラちゃんみたいに、太らない身体だったらなぁ。ね、甘いもの、好き?」

「まぁ、はい。人並みには」

「そうかぁ。私はね、人並み以上に好き」

「はぁ」

「アーモンドプードルの焼き菓子が好きなんだぁ。サクサクってするやつ。あとはプリン。日本人の主食が、お米じゃなくてプリンだったらいいのにって、いつも思ってる」

ふわっふわで中身のない話が、俺の思考を遮ってくる。どんな反応を取れば正解なんだ? やっぱり俺には、女子との会話はハードルが高すぎる。とりあえず、このゆるふわ美人と付き合うことになったら、毎日プリンをプレゼントしよう。……そんな日が来ることなど、ないだろうけれども。

「光太くんは、好き?」

甘ったるい声で聞かれる。普通の話でも無駄に緊張してしまうのは、相手が女子、しかも超一軍の先輩だからに違いない。周りを行く男子生徒の目が、いっそう鋭くなった気がした。剣山が差し迫ってくる気分だ。何だかちょっと、いやかなり、痛い。

「え?! いや、あの、はい」

「どっち?」

「いや、えーと、はい」

「よくわかんないよー、もう。ね、好き?」

「はい、好きです!」

告白でもしている気分になる。何を聞かれたんだっけ。質問された内容なんかすっかり吹っ飛んでるけど、向こうはニコニコしてるからまぁいいか。

歯どころか、脳みそまでトロトロに溶かされてしまうんじゃないかってぐらいのシュガースマイル。こんなもの見せつけられたら、言葉も思考もクソもあったもんじゃない。

「掃除も?」

「え? あ、はい……?」

掃除? 掃除がどうかしたんだろうか?

「まずは機材置き場を案内するね。と言っても、すぐそこなんだけど」

待て、掃除の話はどこにいったんだ。好きとか何とか、何だったんだ。気にはなるけど、もっと気になるのは差し出されている細い人差し指だ。白いし細いし、こんな手で硬式ボールやウォータージャグを持つのか? あれ、俺でも重たいのに。大丈夫なのかと勝手に心配になってきた。

「ここ、機材置き場」

「はい」

部室とバックネットの間に、よく言えばガレージや車庫、悪く言えば防空壕みたいな造りのスペースがあった。

バッティングマシーンやバッティングケージ、ボールスタンドが並んでいるそのスペースを、どうやら機材置き場と呼ぶらしい。マシンの脇には、ボールを詰め込んだカゴが積み上がっている。それらのさらに脇で、肩身狭そうに置かれているのが箒とバケツ。砂糖菓子製の指は、ピンポイントにそこを指していた。

「箒はあのまま使うと掃いたときに砂埃が舞うから、バケツに水汲んできて、少し先を濡らしながらゆっくり掃いてね?」

「え?」

待てまて。掃くって? 何の話だ?

「あれ? 掃き掃除は嫌だった?」

「嫌じゃないです、全然まったく問題ないです!」

「じゃ、お願いね?」

待てまてまて。何を?!

「いやあの、何を、というか。どこを……?!」

「部室だよ。野球部の」

「へ?!」

リトルリーグのチームに、マネージャーはいなかった。監督は、「来たときよりも美しく!」と、グラウンドもベンチも徹底して掃除するよう俺たち選手に常々言っていた。……何が言いたいかと言えば、部室の掃除は、部室を使う野球部がやるべきでは? ということである。

「練習環境を整えてあげる。それが、マネージャーのお仕事のキホンだからね」

語尾にハートマークを付けて天女が言う。そんな風に言われたら、もう反論できないじゃないですか。心にもないけど、ソウデスネと思うしかない。あぁ、クソ、可愛いですね異常なほど!

「とりあえず3年生の部室からね」

「はぁ……」

ごめんやっぱり待ってくれ。3年生の部室“から”、って。もしかしなくてもそれじゃ、3年から1年まで、全学年の部室の掃除をやるってことか? 俺が? 一人で?

「掃いても掃いてもキリがないと思うけど、どこで終わりにしようって悩んだら、30分を目安に次の部屋に行ってね」

じゃないと3部屋回り切れないから、と付け加えられた。あぁ、ビンゴしちまった。これは嫌がらせか、何かの罰ゲームですか? 天女様。

「失礼しまーす、マネ部でーす」

俺のショックもがっかり感も伝わっていないらしい天女は、クラブハウス棟の1番北側の部屋を開けた。

「ここからね」

と、ドアの下にストッパーを挟む。

「防犯的な意味も含めて、お掃除中はドア開けっぱなしにしといてね。じゃあ、よろしく」

「え?」

「今日の光太くんのお仕事は、部室の掃除。私は遠征の荷物まとめがあるから、体育教官室にいるね。また後で迎えに来まーす」

ばいばーい、と手を振られては最早引き止める術がない。分かりました、と諦め半分に呟く頃には、羽衣さんはもういなかった。


部室には誰もいなかった。野球部はすぐ側で絶賛練習中なのだから当然だ。

壁際にパイプ椅子がずらり、所狭しと並んでいる。空の椅子もいくつかあるが、ほとんどの座面の上にはセカンドバッグが置かれていた。このカバンは新和第一野球部のトレードマークの一つだ。濃紺にゴールドで書かれた学校名と個人名が、俺には勝ち組の証に思えてならない。羨ましい、俺もこのカバンで通学したかった。

憧れのあれこれを目の前にすれば胸が高鳴りそうなものなのに、ただちくりと心臓が痛むばかりだ。眩しくて直視できない。天女より、ずっと。

さっさと水を汲んで来よう。こうなったら、天女のお迎えが来る前にピッカピカにしてやる!


という意気込んだ俺は、たった1時間半後に自分を呪う羽目になった。羽衣さんと一緒に来た副部長が、部室を見るなり

「……こんなにキレイにできるなら、しばらく光太に掃除役お願いしてもいい?」

と真顔で聞いてきたのだ。

「あ、いやごめん、嘘だよ」

とすぐに言われなかったら、膝をついて崩れ落ちていたかもしれない。

マネージャー初日、完了。やっぱり前途は多難にしか思えない。

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