不可逆不変の心臓
ケンタウリ岡田
不可逆不変の心臓
そこに女が在る。彼女は美しい容姿を授かっていた。長くうねりのある艶やかな黒髪。陶器のように白く滑らかな肌。細く
二年程同じネットカフェの一室に住んでいた彼女がその扉を開けると、そこに魔女がいた。魔女は座り姿でも彼女の背丈をゆうに超える大きさで、痩せた木の枝のように細い身体を漆黒の布で覆っている。頭にはそれらしくトンガリ帽子を被っていた。一見、怪異以外の何者でもないソレに彼女も少し血の気が引いたが、その隣に使用済みの皿が何十枚も重なっているのは見過ごせなかった。彼女に注意された魔女は特に逆上するでもなく、申し訳なさそうに――まず背後に人間が立っていたことにひとしきり驚いた後――申し訳なさそうに謝罪した。聞くに、行き先を間違えて、雨も降りだして、腹も減ったのでつい魔が差したらしい。手指を絡ませながら恥ずかしげにうつむく姿は、その端正な顔立ちに反して無垢を匂わせる少女仕草であった。しかしながら放送休止映像が流れる暗闇で異類婚姻譚が始まる気配は毛ほどもない。結局支払い能力のない魔女の代わりに彼女が食事代を捻出し、その代わりにといって魔女はある提案をした。曰く、何でも一つだけ願いを叶えて差し上げます、と。零信百疑であった彼女だが、魔女の純朴さと、確実にヒトではない体躯を改めて確認して、自身の願望を告げることにした。彼の理想の女性になりたい、と。姿形をそう変化させるのではなく、魂の根源から。つまりは別人として。その理由を魔女が尋ねると、彼女は彼の
彼の周囲はいつも前後二列左右四席程度空いているので、彼女が隣に座るのは容易だった。
「え……。あ、あぁ、はい、どうぞ」
彼女の望みはこの彼と一生を共にすることである。そのためには恥じらっている場合ではない。周囲のザワザワも気にするべきではない。少しして講義が始まったが、今日の彼は平生と比べてどこかぼんやりとしていた。何も考えていないというよりは、別の何かに脳のリソースを割いているかのような……珍しい、と彼女は思った。普段なら教授の咳一つも聞き漏らすまいと熱心に向きっているのに。すると、教授が彼を名指しした。
「えっあっはい!」
驚いた彼が頓狂な声を上げて席を立った。どうやら教授は今回使用する数式についての説明を求めているらしかった。余談だが、この教授の字は格別小さいことで有名なので、べらぼうに視力がいいかきちんと話を聞いていないとお眼鏡に適う返答はできない。つまり、彼は非常に不味い心地である。
「えっと……あーー、あ、う、うぅ……その……ぉ――――
――――嗚呼、思い出した。『ボンド・アルタナンバー公式』 でしたよね。両辺を逆数にした状態で分母を揃えて計算して、全体をA二乗に置き換えて他の式に流用する。その事前準備の公式です。おや? 然しこの内容、夏休み前に終わりましたよね? 確か教科書の136頁までは履修済だった筈ですが」
方々から嘲笑、絶句、呆れの声が耳に入る。ホラ吹きは今年の夏も治らなかったか、と教授は言って、彼に着席を促した。彼だけは訳が分からぬと首を傾けながら腰を降ろした。説明すると、彼は魔法使いだった。彼は追い詰められると異世界へワープすることができる。この世界とレイヤーが違うだけの世界の常識や経験に則って、その時の彼は行動したり発言したりするのだ。だから彼は、単に真実を述べているに過ぎない。しかし、このトリップは長くは続かない様で、数分も経てば放浪を終えてこちらに戻ってくる。今、彼女の隣で脂汗を滲ませながら小刻みに手が震えているのが帰還したという証拠である。つまるところ、彼は患っていた。講義が終わった後も頭を抱え続ける彼に、彼女は慰めの言葉をかけた。
「あ……ありがとうございます。すみません……」
ぎこちなくだが、彼は微笑んだ。彼女は、今日初めて彼が笑ったのを見て安堵した。彼とは夏休み中も数回しか会っていなかったので、元気のない彼を彼女は少し心配していたのだった。そのまま昼食へと誘う。
「え……あ、あっその今日は、ちょっとやりたい事があって……。すみません。せっかく、その……。あっ僕、あの、行きますねっ」
気にしないでという風に彼女は彼を送り出したが、彼女には疑問が残った。彼は何を急いでいるのだろう? 何かあったのだろうか? 彼は病に侵されているが、そのおかげで彼と彼女は二年前から十年来の親友であった。彼女にとっては初めての友である。彼女は、できるだけ自分が彼の力になりたいと常日頃から思っていた。なので彼が抱える問題の解決に助力する事を、今この場で決意した。
人混みに流されて見失ったその日以来、彼へのストーキングは成功を収めている。彼は猫背でいつも下を向きながら歩いていて、歩幅も小さいので、彼女が余裕をもって尾行するのに最適だった。けれども彼女は未だ、彼の意図をはかりかねている。彼は本当に色々な所へ行った。市立病院の壁に囲まれた屋外の休憩スペースや、河川敷を跨ぐ高架下。二十時のスーパーの軒下など……。何だか少し陰気で、人もまばらな場所ばかりを探している。彼女は、彼は人を探しているのではないかと推測した。なぜなら彼女の知っている彼は病院も川もスーパーも特別好きではないし、そんな場所の写真を撮るような趣味もないはずだからである。周辺の物品や情景に思いがあるのではなく、そこを好む人間を目的としているのだと彼女は考えた。しかし彼が向かう場所はいつも、およそ待ち合わせに適しているとは思えない。人通りはほとんど無く、あったとしても少数で、他者に無感心な
「人を、探しているんです。……ほんの少し前から」
彼と友人になるということは容易ではない。しかし彼女にとってはそう難しくはない。単純にそれは以前彼女が成し遂げた行為の追体験に過ぎないからである。攻略チャートを知っているのにそこからわざと外れるような真似はしないだろう。例えば昔の彼女は、彼の苦手なトマトを食べてあげたり、ベンチの日影を譲ってあげたりしていた。些細なことだが、丁寧な気遣いは相手に信頼感を与えると彼女は何となく分かっていた。しかし、対して仲の良くない人間が突然分かったような素振りをしても不快に感じられるだけであろうから、彼女はそれを悟られないようゆっくりと、かつ前回よりも早急に彼との距離を縮めた。奇妙なことに、彼女は彼の感情を以前より読み取り易くなった。それは昔ならよく見られなかった彼のうつむいた顔が見えるようになったりと、新たな視点を得たことによる成果だろう。色々と不便もあるが、彼の歩調により簡単の合わせられる今の自身を、彼女はいたく気に入っていた。そんな努力の甲斐があって、彼女は彼に相談事を持ち掛けられるまでに仲を深めた。季節は草木を黄金色に染めて、もう少しで冬の足音も聞こえてくるだろう。楓の木々が並ぶ図書館の裏で打ち明けられた話は、概ね彼女の予想通りであった。彼は人を探しているらしい。いったい誰なのか彼女は聞いたが、彼はあまり話したくないようだった。
「僕があんまりによく喋ると、本当に嘘になってしまうような気がして……。僕は、嘘つきですから」
余程、彼は思い詰めているらしい。今はほんの少し前と言っているが、実際はその言葉よりも長く探しているのを彼女は知っていた。彼女はこれ以上の仔細を聞くのを諦め、代わりに失せ人探しを手伝うことを申し出た。
「え……いいんですか? ありがとうございます。僕にとって一番大切なひとだから早く見つけたくって……」
彼は、嬉しい、という風に笑った。
「……って、こういう事を話さないようにするって言ったばっかりなのに……あぁ……」
次は顔を覆ってうなだれる彼を、いつものように彼女が笑って慰める。その後はただ、他愛もない話ばかりをしていた。彼女はこの時間も好きだった。彼と話す度に、彼が嘘をつく回数が減っていくのを感じるのは何とも言いようのない心地だった。話題もさまざまである。昔、水泳教室で一番泳ぎが上手だったとか、蜂の巣を落としてしまったことがあるとか、流星群への願い事が叶ったとか。嘘とも誠とも取れない内容もあるが、それはそれでいいと彼女は考える。彼が心から楽しんで自分との会話を楽しんでいるのであれば、嘘でも勘違いでも構わなかった。
「今日はもう帰りますね。じゃあ、また明日」
ひとしきり会話をして、彼は帰って行った。その様子を見送った彼女は、今日も彼の後を尾けるためにそそくさと校門前に向かう。先程、彼女は彼の人探しを手伝う事に非常に協力的だった。それは事実である。しかしながら同時に、嘘になってしまえば良いのに、とも思ったのだ。酷い思考だという自覚が彼女にはある。だが、彼女の願いは彼の唯一になることだった。
それ以外はなかった。
それだけなのである。
この身体になってから、彼女は時折、肌が引き攣るような感覚に陥ることがあった。それはシャワーを浴びている時だとか、雨に濡れた時に起こるので、皮膚が水に弱くなったのだと考えるのは難しくなかった。理由は見当もつかないが、せめて雨は凌げるようにと、彼女は大きな傘を新調した。安かったのでつい派手な赤いものを買ってしまったが、割と気に入っているようである。今日もそれが役に立つ日だった。こんな日には、彼女は昔のことを思い出す。雨の日は、彼女を疎んでいた両親と弟が車ごとお釈迦になった日でもあった。そして、あの時お世話になった警察署に今、彼が入っていった。彼女は訳が分からなかった。いや待てよ、彼女は考え直す。人を探しているのだから、それを警察に頼むのは道理なのでは、彼女はそう思い直した。とりあえず彼女は少し後ろからこっそり着いて行く。雨天時でも気配や足音を消すのを怠らない。これは昔から彼女が得意なことだった。よく見ると、彼は署の前で一人の警官と話している。
「—―すいま――二ヶ—―――という――捜索——した――――」
雨音が強くなってきて、よく聞こえない。彼女はもっと彼に近づいた。彼が背を向けているのが幸いである。すると今度は、警官が突如彼を責め立てたて始めた。やれ妄想で警察を動かすなだの、そんな人間は存在しないだの。……何だか、彼女は嫌な予感がした。彼の声は、もう雨の音で搔き消されることはない。
「ち、違います! 噓なんかじゃありません! 確かに、大学の皆も覚えていないし、アルバイト先にもいないし、昔一緒に撮った写真にも写っていないけど……。けど、これだけは本当なんです!」
彼は、いつにも増して懸命だった。彼女がこれまで見たことがないくらいに。
「そ、そうだ! もしかしたら、名前を間違えたのかもしれません。もう一度、もう一度探して下さい! 彼の、名前は――――」
彼は彼女の生名前を告げた。正確には、彼女が魔法をかけられる前の名を。思わず、彼女の口から動揺した声が漏れる。警官が気付いた。彼が振り返った。彼と、目が合った。瞬間、彼女は逃げ出した、彼が呼ぶ声も無視して。今度こそ、彼女は本当に、訳が分からなくなった。
向こう見ずに走り抜けた先は、雨で水嵩の増した河川敷だった。疲弊した彼女はもう走ることなどできず、重い足を引きずりながら歩くだけだったが、ふと何かが目に入った。雨の隙間から見える黒い枝。目立つトンガリ帽子。いつぞやの魔女であった。魔女は無理やりに曲げられたような姿勢の木の下で、草むらに膝を立てて座っていた。彼女が声をかける。魔女は少し驚いた後、にこやかにごきけんようと挨拶をした。特に理由らしい理由もなくただ川を眺めていたらしい。少しの静寂の後、彼女は魔女を問い質した。何故彼だけが、前の自分を覚えているのか。魔女はしばらく停止していたが、突然何か思い出したように声を上げた。曰く、貴方みたいな良い人が忘れられるなんて可哀想だから、一番のお友達には
昔、そこには男が在った。かれは特段目立つ容姿ではなかった。短く刈り上げた癖のある短髪。乾いた肌。必要な肉もついていない腰。そして母親の不倫相手によく似た顔……。かれが家族の中で浮ついた存在だったのは明白である。夫は妻を愛していたので、この大罪を寛大に許したが、かれは許されなかった。母親は不倫相手も愛していたはずなのに、突如として憎み始め、かれをいつも非難するような目で見ていた。翌年生まれた種違いの弟は、この夫婦によく似ていた。自分とかれは違うのだと思いながらすくすくと育ち、自分が上回ればかれを愚鈍だと詰り、かれが上回ればかれの生い立ちや根も葉もない噂を広めた。そんな状況だったのでかれにはずっと、信頼できる大人はおろか級友すらもいなかった。差し伸べられる手には、憐憫と共に自惚れも見え隠れしていたので、取るには少々くすんで見えた。かれに友人と呼べる者が現れたのは、随分と最近である。その人間は、かれとは小学生の頃からの友達であったという、意味の分からない話にかれの同意を求めてきた。その場では話を合わせたかれだが、後に正気に戻った彼に謝罪された。彼は、自分の特性にほとほと困り果てているように見えた。だから、本当に友達になろうかとかれは持ち掛けて、その手を彼へと差し伸べた。その手に憐憫と自惚れがあるのはかれも自覚していた。彼は、本当に喜んで彼の手を取った。結局かれも、かれが信頼できないと思っていたモノの一員だった。それはかれ自身が昔から気付いていたことであった。だから家族が死んだ時、その死に顔が焦げて分からないこと以外は、かれは大いに喜んだ。解放されたのだと安堵した。しかし、それが喜ばしくないときもあると、後にかれは理解する。それは彼がいつだったか自分が好ましいと思う女性像について語り始めた日である。その日からかれは、彼が自分以外の誰かに好意を向けるのを恐れ始めた。かれはどうしようもない奴だったが、真に彼のことを愛していた。欲していた。彼にも自分のことを欲して欲しかった。極論、彼の隣に居られるなら、自分がどのようになっても良かった。しかし、それは夢のような話である。諦めるのは容易かった。かれも、現状を維持し続けることが何よりも幸福でいられる手段だとよく知っていた。……しかし、突如として別の手段が降ってきた。魔女は、かれの願いを叶える救世主だった。かれは、夢のような話を望んだ。一歩、その片道切符の一歩を踏みしめた。
これは彼女のであり、今、女であるかれの身の上話である。
身体と意識が沈んでいく中で、彼女は今までを顧みていた。生まれが悪かったこと。家庭に居場所が無かったこと。善い人間に成れなかったこと。そして、彼。弱くて、純粋で、何にも知らない人。彼女にとって、彼だけは真に友人だった。彼だけは、同情で彼女と友になろうとしなかった。それだけでどんな人間よりも輝いて見えた。だから、どうしても彼の傍に居続けたかった。彼女には偶像たる彼しかこの世の拠り所がない。ゆえに姿を変えた。昔、彼が話していた女性の好みの通りに。彼女の隣を歩く彼が可笑しな目で見られないように。彼女が彼にそう思われないように。例え、生きた証を消し去ってまでも。その結果が現状である。要らないと考えていた前の自分を、命と引き換えに取り戻そうとしている。馬鹿らしい、と彼女は自分を鼻で笑った。結局、自分本位に動いても何にもいいことがなかった。ただ、彼女には一つ嬉しかった事実がある。彼があんなにも懸命に自分を探してくれていただなんて! しかし、そんなする必要も無い手間をかけさせたのもまた彼女である。愚かしくも、彼女は彼への愛によって、彼を傷つけ、苦しめ、願いを叶える。おそらくもっとも望まれていない形で。彼女の肌が酷く引き攣る。裂かれそうだ、と彼女は思った。美しい髪も、肌も、身体も、顔も、全て失われるのだろう。身を粉にしてまで調えたのに。その最後に、捨てた自分が返ってくるのだ。彼女は自分の手を見る。揺らいで見える、角張った無骨な手。昔持っていた手。俺の手。欲深すぎたのだと、最後に後悔して意識を手放した男は気付かなかった。上から誰かが近づいて来ているのである。誰かは懸命に手を伸ばす。息苦しいだろうに諦めようとはしなった。伸ばして、伸ばして伸ばして伸ばして空振りして、伸ばして――――彼女の腕を掴んだ。
「—あっ! だ、大丈夫ですか? 僕の事、分かりますか?」
瞼を持ち上げれば一面の雲天、そして濡れ鼠の彼が視界に入る。仰向けのまま辺りを見渡せば、派手な傘と靴が転がっていて、魔女はどこにも居なかった。すぐに飽きてしまったのか、それとも彼に驚いて逃げてしまったのか。どちらにせよ、これが目印になったのだろうと、彼女は考えた。重い身体を起こして、申し訳ないという風に謝りながら笑うと、堰を切ったように彼の目から涙が溢れ出す。そして彼女を弱々しく抱きしめた。
「良かった……よかったぁ」
頭の横で、彼が鼻を啜る音が聞こえる。彼の首筋に唇を寄せられる距離にある。隙間なく身体を密着させ、彼の熱を共有している。この状況は、彼女が夢にまで見たそれだった。彼女の胸の内から喜びが込み上げてくる。彼が、自分を助けてくれた。抱き締めてくれた。自分を思って泣いてくれた。それと同時に、理解していることもある。男の姿のままでは、彼はきっと自分を引き上げられなかっただろうということ。自分は今、女の姿であるということ。そして彼が今、泣いて抱きしめているのは、たかが出会って二か月程度の、その女であるという事。自分を大切に思ってくれていた彼が、どのように人を愛するのかを別人の身体で知る行為は、彼女に耐え難い屈辱を与えた。それこそ、死んでしまった方が良かったのではないかと思う程に。彼女の目からも涙が流れ落ちる。それは喜びか、悲しみか、あるいは自分への憐みかもしれなかった。
「あぁ、貴方までいなくなってしまったから、僕は、もうどうすればいいのか……」
あぁ、君が望んでいた俺を殺したのが私であると言えたら、どれだけ良かったか。愛する彼の腕の中で、女はさめざめと泣いた。
不可逆不変の心臓 ケンタウリ岡田 @mitoosigaamai
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