第91話 気和飛姫、大庭野に待ちわびること

 西海から続々と、兵が引きあげてくる。


 その日、緑御前の古屋敷からひとり飛び出した気和飛けわい姫は、大庭野おおばのに出て、夫、佐々木五郎義清の帰りを待ちつづけた。


 夫の馬は、赤毛と白毛の入り混じった馬で、大庭御厨産の名馬である。

 なにしろその馬が無事かどうかはわからぬが、目を凝らして、その赭白しゃはくの、珍しい毛色を探しつづけた。


 夫が西海の戦場に赴いて後は、無事帰ってきてくれることを祈るばかりの毎日であった。

 万一、夫に不幸があれば、自分も緑御前のように狂乱してしまうかもしれないと思った。

 いよいよその時が来たら、波多野尼と同じように、すぐさま髪を薙ごうと毎日心構えをしていた。

 近縁のふたりの女の不幸を間近に見ているだけに、まさか自分だけが、このような思いもよらぬ幸運に巡り遇おうとは、想像すらしていなかった。


 顔には、できうる限りの、美しい化粧をほどこした。

 やつれ顔が、すこしでも美しく映えるよう、工夫を重ねた。

 白粉おしろいをはたいているうちに、不思議と心が落ち着いてきた。



 ――兵列のなかにいた五郎義清は、妻の姿にすぐに気がつき、ふり返って兄の顔を見た。

 盛綱はうなずき、「ゆけ」と弟の背中を押した。

 義清は解き放たれたように、妻のもとに馬を駆けさせた。

 擦り切れ、疲れ切った体と心とをよじり合わせ、ふたりは荒々しく抱きしめあった。


 治承四年の秋、かれらはまだ十代の後半であった。

 あれから五年の月日が過ぎていた。


 石橋山勝利の後の、急転直下の没落……。

 義兄の大庭三郎景親と、陽春丸の断罪。梟首。

 河村義秀をはじめ、戦友たちの刑死。

 その後、義清自身も捕縛された。


 鎌倉で三年余りの謹慎生活……。

 そして囚人の身柄のまま、一族に混じって平家追討軍に身を投じた。

 戦功を立て、晴れて恩赦を得ることができた。


 宇治川、一の谷、近江おうみ藤戸ふじと鎮西ちんぜい壇ノ浦だんのうら……数々の戦場に、義清は地獄を見てきた。

 今でも耳の底には戦場の阿鼻叫喚が、けたたましいほどに鳴り響いている。


 父、佐々木源三も、かれの目の前で、激戦のうちに命を落とした。

 息子の恩赦を得るため、懸命に骨を折ってくれた父のことを思うと、五郎は慟哭をあげずにはいられなかった。


(激戦であった――我のみが、ふたたびこの大庭の地に生きて帰ることができようとは、思わなかった……)


 いつまでもふるえを止められぬ夫の体を、気和飛姫はちいさな体で精一杯、抱き止めるのだった。

 すでに、鎌倉化粧坂けわいさか下の一族伝来の地に、景義が屋敷を用意してくれている。


 沈みゆく夕陽は真後ろに、大庭野の空を真っ赤に染めあげている。

 ぬかるんだ土に、いくつもの水溜りが、つららを張りつめたように輝いている。

 赭白の馬の背にゆられながら、若い夫婦は雲の上をゆく心地に、黄金こがね散り敷く光の道を辿っていった。



(ふところ島のご隠居・第二部『新都鎌倉編』了)






謝辞 お読みいただき、誠にありがとうございました!


 敬意をこめて、心より感謝申し上げます。






『ふところ島のご隠居・第三部 救済編』 公開中


罪人の少年たち……波多野有常と河村千鶴丸。


景義は、どのようにして少年たちを罪から救うのか?


ことが発覚すれば、景義自身が罪に問われ、かれらは命を失うだろう。


これまで培ってきた経験のすべてを賭し、景義はこの難題に挑む。

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