第81話 俣野五郎、志を貫くこと

 太陽が、盛んに暑さを増してゆく。


 陽炎のさなかを、二匹の蝶がもつれあうように、互いのまわりを飛び廻っている。

 大樹の樹皮には、蟻の大軍が忙しく上下する。

 草の陰では青大将がとぐろをまいたまま、じっと動かない。

 スズメバチがぶぅんとうなって、景義のひたいをかすめ飛んでいった。


 緑御前の古屋敷に、心づくしの品を届けに行った景義は、帰路、ひとりの乞食こじきていの男に出くわした。


 憐れっぽくよろよろと、足元がおぼつかない。

 だが、太刀を杖にしている。

 雑色たちは怪しんで、主人の馬を守ろうとした。


 景義は目を細めた。

 今や太陽は沈まんとしている。

 黄昏のまぶしい光を背に負って、痩せ細った男の顔が、いっそう暗い影に沈んでゆく。

 男が、唐突に口を開いた。


「五郎殿が、……死にました」

「なに?」

 景義は驚いて、思わず馬から飛びおりた。

 近くでよく見ると、顔の特徴に見覚えがあった。

「そなた、確か、三郎景親が郎党、……左七さしちか」


 獅子面ししづらの左七……つりあがった太い眉、鼻下の縦線が深い。

まるで絵に描かれた獅子のような顔である。

 それで「獅子面の左七」なのであるが、まわりからそう呼ばれていたわけではない。

 景義が内心、勝手にそう呼んでいたのである。

 弟の郎党といえど、よく観察し、自分が憶えやすいように仇名をつけておくのが、年来の習慣であった。


 ……思いの他の憶えのよさに、男のほうは、狼狽といっていいほどの驚きをみせた。

「よもや、わたくしごときを覚えておいでとは。いかにも、三郎殿が郎党、左七にござりまする」

 この左七、身ぶりは礼儀正しくとも、体も着物も長いこと洗っていないのであろう……鼻を刺すような臭気が耐えがたいほど匂ってくる。

 雑色たちは、思わず袖で鼻を覆わずにはいられなかった。


 しかし景義は気にもとめず、なおいっそう男に近づいた。


「五郎が、どうしたと?」

「加賀国は篠原にて、源義仲の軍勢と戦い、戦死を遂げられました」





 ――事情を聞けば、こういうことであった。


 左七は、景親と平家との連絡係であった。

 新都福原に待機していたために、あるじの景親と命運をともにすることができなかった。

 景親の京屋敷で情勢を見守っていると、そこへ俣野五郎が落ち延びてきた。

 左七はすぐに、五郎の配下に入った。


 五郎は毎晩のように平家方の武者たちと集まっては、酒杯を交わした。

 今宵は斉藤実盛の家、次の晩は伊東九郎の家、次の晩は浮巣三郎の家と、毎晩場所を変え、飲み明かした。

 これら浮浪の武者衆を前に、実盛は問いかけた。


 ――斉藤実盛、齢七十二。

 若い頃は源家に仕え、今は平家に仕える、筋金入りのつわものである。

 雪のつもったような白髪ながら、鍛えこまれた武者の体は衰えもみせず、背筋はすらりと伸び、その声は天井のうつばりに重々しく響いた。


「今、つらつらと世情を顧みるに、坂東鎌倉には源頼朝が勃興し、信濃越後には源義仲が騎虎の勢いである。平家はといえば、まったくもって落ち目である」


 その言葉どおり、平家はあの富士川の、戦わずして逃げ去った前代未聞の敗戦以来、続々と凶報に見舞われていた。

 一族の巨頭、平清盛の病死。

 全国各地における武力蜂起。

 寺社勢力との武力闘争。

 勢力の基盤である西国の、凶作の連続。

 つい三年前まで絶頂を極めていた平家政権が、高すぎる階段を踏み外したかのように、みるみるうちに転落していった。


 一方で台頭してきたのは、北国ほっこくを席捲する源義仲であった。

 義仲は頼朝の従弟であるが、頼朝には従わず、北陸に独立して自らの勢力を伸ばして来た。

 この義仲を討滅するため、今、平家は大軍を派遣しようとしている。

「この情勢を見て、おのおの、いずれのかたに加勢しようとお考えか?」


 実盛の言葉を聞くや、床を蹴って真っ先に立ちあがったのは俣野五郎であった。

 都では有名な力士である。

 知らぬ者はない。


 ひとつ、まわりを睥睨へいげいしてから、かれは野太い声を張りあげた。

「俺はあくまでも、平家への志を貫く。時勢によって身を左右するのは、見苦しい。そのような行為こそ、名の汚れよ。みなの衆、そうは思わぬか」


 一議もなく、みな五郎に賛同した。

 五郎の言葉には、なぜか人を惹きつける勢いがあった。

 ……人を魔所へと惹きつける、恐ろしいばかりの勢いが……


 実盛はその日以後、白髪を墨で染め、戦場へと、覚悟のほぞを固めた。


 五郎も実盛も平家軍の一翼を担い、義仲討伐に出立した。

 結局のところ、平家軍は越中の倶利伽羅くりから峠において、見るも無惨な大敗を喫した。

 敗走のさなか、五郎は敵陣に切り込み、多くの敵を巻き添えにしながら討死したという。

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