第81話 俣野五郎、志を貫くこと
太陽が、盛んに暑さを増してゆく。
陽炎のさなかを、二匹の蝶がもつれあうように、互いのまわりを飛び廻っている。
大樹の樹皮には、蟻の大軍が忙しく上下する。
草の陰では青大将がとぐろをまいたまま、じっと動かない。
スズメバチがぶぅんとうなって、景義の
緑御前の古屋敷に、心づくしの品を届けに行った景義は、帰路、ひとりの
憐れっぽくよろよろと、足元がおぼつかない。
だが、太刀を杖にしている。
雑色たちは怪しんで、主人の馬を守ろうとした。
景義は目を細めた。
今や太陽は沈まんとしている。
黄昏のまぶしい光を背に負って、痩せ細った男の顔が、いっそう暗い影に沈んでゆく。
男が、唐突に口を開いた。
「五郎殿が、……死にました」
「なに?」
景義は驚いて、思わず馬から飛びおりた。
近くでよく見ると、顔の特徴に見覚えがあった。
「そなた、確か、三郎景親が郎党、……
まるで絵に描かれた獅子のような顔である。
それで「獅子面の左七」なのであるが、まわりからそう呼ばれていたわけではない。
景義が内心、勝手にそう呼んでいたのである。
弟の郎党といえど、よく観察し、自分が憶えやすいように仇名をつけておくのが、年来の習慣であった。
……思いの他の憶えのよさに、男のほうは、狼狽といっていいほどの驚きをみせた。
「よもや、わたくしごときを覚えておいでとは。いかにも、三郎殿が郎党、左七にござりまする」
この左七、身ぶりは礼儀正しくとも、体も着物も長いこと洗っていないのであろう……鼻を刺すような臭気が耐えがたいほど匂ってくる。
雑色たちは、思わず袖で鼻を覆わずにはいられなかった。
しかし景義は気にもとめず、なおいっそう男に近づいた。
「五郎が、どうしたと?」
「加賀国は篠原にて、源義仲の軍勢と戦い、戦死を遂げられました」
◆
――事情を聞けば、こういうことであった。
左七は、景親と平家との連絡係であった。
新都福原に待機していたために、
景親の京屋敷で情勢を見守っていると、そこへ俣野五郎が落ち延びてきた。
左七はすぐに、五郎の配下に入った。
五郎は毎晩のように平家方の武者たちと集まっては、酒杯を交わした。
今宵は斉藤実盛の家、次の晩は伊東九郎の家、次の晩は浮巣三郎の家と、毎晩場所を変え、飲み明かした。
これら浮浪の武者衆を前に、実盛は問いかけた。
――斉藤実盛、齢七十二。
若い頃は源家に仕え、今は平家に仕える、筋金入りのつわものである。
雪のつもったような白髪ながら、鍛えこまれた武者の体は衰えもみせず、背筋はすらりと伸び、その声は天井の
「今、つらつらと世情を顧みるに、坂東鎌倉には源頼朝が勃興し、信濃越後には源義仲が騎虎の勢いである。平家はといえば、まったくもって落ち目である」
その言葉どおり、平家はあの富士川の、戦わずして逃げ去った前代未聞の敗戦以来、続々と凶報に見舞われていた。
一族の巨頭、平清盛の病死。
全国各地における武力蜂起。
寺社勢力との武力闘争。
勢力の基盤である西国の、凶作の連続。
つい三年前まで絶頂を極めていた平家政権が、高すぎる階段を踏み外したかのように、みるみるうちに転落していった。
一方で台頭してきたのは、
義仲は頼朝の従弟であるが、頼朝には従わず、北陸に独立して自らの勢力を伸ばして来た。
この義仲を討滅するため、今、平家は大軍を派遣しようとしている。
「この情勢を見て、おのおの、いずれの
実盛の言葉を聞くや、床を蹴って真っ先に立ちあがったのは俣野五郎であった。
都では有名な力士である。
知らぬ者はない。
ひとつ、まわりを
「俺はあくまでも、平家への志を貫く。時勢によって身を左右するのは、見苦しい。そのような行為こそ、名の汚れよ。みなの衆、そうは思わぬか」
一議もなく、みな五郎に賛同した。
五郎の言葉には、なぜか人を惹きつける勢いがあった。
……人を魔所へと惹きつける、恐ろしいばかりの勢いが……
実盛はその日以後、白髪を墨で染め、戦場へと、覚悟の
五郎も実盛も平家軍の一翼を担い、義仲討伐に出立した。
結局のところ、平家軍は越中の
敗走のさなか、五郎は敵陣に切り込み、多くの敵を巻き添えにしながら討死したという。
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