第70話 景義、消沈すること

「歩けもせぬ。大好きな馬にも乗れぬ。もはや人に仕えることもできぬ。とんでもないろくでなしになってしまった」


 波の音が、いっそう高くなったようだ。

 砂浜では身なりつましい人々が寄り集まり、藻塩を焼いている。

 その煙が潮風になぶられながら、遠くの空まで黒々とたなびいている。


 あたりには、うすら寒いような、白けた光が漂っていた。

 撫子の原も、海浜の景色も、どこかしらもの寂しげで、深い陰影ばかりが心に忍びこんでくる。

 目に入るすべてのものが、無情にも……夏の終わりを宣告していた。


嗚呼ああ――」

 と、景義は風のなかに嘆息し、拳を固めた。

「昔はあの海でよく泳いだものだった……夏が来れば、毎日毎日飽きもせず、まるで魚になったかのように、力のかぎり波をかきわけ、思い切り水を蹴って……今ではもう、それも叶わぬ……」


 どう答えていいかわからぬように、宝草は口をつぐんでいる。

 少女の戸惑いに、景義はようやくのことで気がついた。

「つまらぬ話をした。すまぬな」


 ふたたび雑色たちを呼び集めると、輿を担がせた。

「帰るぞ」

 ぽろぽろと草土をこぼしながら、板輿が、薄曇りの空に持ちあがった。


 その時、宝草がためらいがちに、ちいさな声でつぶやいたのである。

「魚には……」

「え」

 ふりかえると、少女とまともに目があった。


 宝草は今度はうつむかず、大胆な勇気で、はっきりと口にした。

「魚には、足はありませぬ」

 景義はびっくりして、少女の、怒ったような真剣なまなざしを、まじまじと見つめ返した。


 拳を握りしめ、身を折って、宝草はもう一度、叫んだ。

「――魚には、足はありませぬ――」


 ……なんでもない、単純な、当たり前の言葉であった。

 それがどうしたことであろう。

 単純なだけ、なおいっそうのこと、景義は思いもよらぬ衝撃を受けた。

 突然の雷に打たれたように、頭のなかが真っ白になった。


「……魚に、足はない……そうだ、そうだぞ」

 景義は、絞り出すように呟いた。

「……たしかに、たしかに……魚には足はない。そなたの言う通りだ。……足がなくとも立派に泳いでいる……元気に泳いでいる……そうか、それだ……」

 思わずも、景義は天を仰ぎ見た。

「馬鹿馬鹿しい。俺は今までくよくよと、なにを悩んでいたのだ……」


 いつしか――西の空に、雲が切れはじめていた。

 徐々に光が差し込んできて、あたりの景色がみるみるうちに生気を取り戻してゆく。

 気がつけば、野辺一面が、紫の炎に包まれていた。

 撫子の花々が、光を散らすように咲き乱れ、風を掻い撫でながら舞い踊っていた。


(どうして……先ほどまで気づかなかったのだろう……)

 景義は思った。

 ちいさな花のひとつひとつが、その体にあらんかぎり精一杯の炎を燃やしていた。

 人に折られても、踏まれても、土に汚されても、どの花も、けして自分をあきらめることなく、一生懸命に風を受け、光を抱き、首をすっくと持ちあげている。

 誇らしげにわらい、うたい、呼吸している。


――ひとつの謎が解けるようにして、

 やがてかれの胸にも、生命いのち燃ゆる、熱い炎が噴きあがってきた。


「宝草、そなたのいうとおりじゃ」

 突き動かされるように、景義は叫んだ。

「若衆ども――それ、ゆくぞッ、それッ」

 かれは若者たちを励まし、輿を反対の方角――海へと走らせた。


「もっと速く、もっと速く」

「殿、もう海でございます」

「かまわん、乗り入れぃッ」

 つらいやら嬉しいやら、わけのわからぬ悲鳴をあげながら、若者たちは冷たい水のなかに踏み込んだ。

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