第71話 景義、魚になること

「けっぱぐれ、けっぱぐれッ」

 波を蹴り立て、飛沫しぶきをあげて、輿は沖にむかって挑みつづけた。


 荒波が勢いよく押し寄せてきて、この無謀な輿を、叩き飛ばした。

 景義は、頭から水に放りこまれた。

 若衆たちは驚きあわてて、てんでに腕を差し伸べた。


 景義は、塩っ辛い波の下で、冷たさをぐっとこらえ、かろうじて両腕を突き出し、もがくように水を掻いた。

 重たい海をつかみ、殴り、蹴りつけ、ひねりあげ――全身で格闘した。


 ……そうして苦しみもがきつづけていると、ふとした瞬間に、勘所が掴めてきた。


(できない、できない……と思いこんでいたが……なんじゃ、泳げぬことはないぞ)

 波の動きに合わせて静かに浮きあがると、かれは鯨のように潮を噴き出した。

「泳げる……泳げるぞ」


 ふたたび水のなかに潜った景義は、若衆たちの輪のなかから、するりと逃げ出した。

 波をかきわけ、沖に突き出た烏帽子岩をめざした。

 幼い頃、十郎兄に泳ぎを教えてもらった頃の新鮮な気持ちが、みるみるうちに甦ってきた。


 しばらく進んでから、浜のほうをふり返ると、驚いたことに――宝草が物怖じもせず、もう胸までも海につかり、水をかきわけかきわけ、すこしずつ近づいてくるではないか。

 景義は身を転じ、一心に水を掻いた。

 大波にろうされ、小波につらを張られながら、ついに目指す少女の体を、二本の腕のなかに、すっぽりと抱きあげた。


 光めく波間に、幾千もの太陽が踊っていた。

 少女は黒髪をつややかに濡らしながら、喜びいっぱいに瞳をうるませていた。

 まるで海そのものが化身したかのように、そのからだ全体が輝いていた。


 景義は叫んだ。

「泳げた、泳げた」

「はいっ」と、宝草はうなずき返した。

「そなたのおかげだ、俺は魚に生まれかわったのだ」


 忘れかけていた、生命の喜び――

 若い力があふれんばかりに蘇ってくる。

 景義は一匹の魚と化し、体いっぱいに大海を欲望した。


 夕照に染まりゆく海原に、烏帽子は何処かに流れ去り、輿はひっくり返ったまま浜にうちあげられ……けれどそんなことにはお構いもせず、若者たちはみな一緒になって泳ぎ、遊び戯れ、喚声をあげた。


 西の空には揺らぐことのない富士の山容が、ほの白い光を帯びて浮かんでいた。


 ――顔をあげさえすれば、いつでもそこに、希望は輝いていた。

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