第72話 景義、萎れた花に気づくこと

 その晩、館に帰るやいなや、景義は目標を立てた。


 まずは杖を使って自由に歩けるようになること。

 次に、馬をふたたび自由に乗りこなせるようになること。

 具体的な目標が決まると、途端に生きる希望が湧いてきた。


 近頃まれにみる主人の明るい顔に、助秋は(おや……)と気づいたが、なにもいわずに普段どおりの報告を済ませた。

 ちいさな花芽が頭を出しかけたのを、そっと大事に、見守るような心もちである。


 立ち去ろうとしたその背中に、景義が声をかけた。

「おい、助秋」

「は」

 景義はなにか言いかけて、やめてしまった。

「……ハハハ、なんでもない。行け」

 助秋はやはり、なにも気づかないふりをして、主人に背中を向けてから、微笑した。



 ――翌日、景義はふところ島の職人たちを呼び集めた。


 まずは杖である。

 今まで使っていた適当な間に合わせのものではなく、自分の体にぴったりと合ったものが必要である。

「できるだけ、軽い材にしてくれ」

「ならばあかざがいいでしょう」

「頼む」


 次に、特別製の馬具である。

 力の入らぬ左膝を固定したいところであるが、完全に固定してしまうと馬が倒れた時に逃げることができず、馬の下敷きになってしまう恐れがある。

 景義と職人たちは様々な案を出しあい、一緒になって議論した。

 これは実際に試しながら造っていくことになった。


 またたくまに、数日が過ぎた。





 くらあぶみの絵図面を眺めていた景義は、わくわくしながら……ひとつ、くしゃみをした。


「休息万病、休息万病……」

 と、まじないを唱え、端切れで鼻をぬぐった。

(季節はずれの冷たい海に入ったから、風邪でもひいたか……)


 遣戸やりどを閉めようと、上体を投げ出し、這いずり寄った瞬間……色ざめたかげが、目の端をすり抜けた。

 花棚に、撫子の花が寒々しく、うちしおれていた。

 景義は雑仕女を呼び、片づけさせた。


 雑仕女は、花籠を抱えながら言った。

「いつも花を持ってきてくれる娘ッ子が、ここのところ参りませんもので、花のことなどすっかり忘れておりました。その娘ッ子がねぇ、『殿は自由に外歩きできませんじゃろうから、おかわいそう』と言うて、毎日毎日、違う種類の花を取りそろえて、持ってきてくれておりましたのよ。風邪でもひいたのかしら……」


 この話に、景義は胸を打たれた。

 そしてふと、ひらめくものがあった。

「その娘、名は何という?」

 娘の名を聞いた途端、景義は屋敷を飛び出した。


 まにあわせの杖は重すぎて、長すぎて……一歩進むにも、たいへんな時を要した。

 だがそれを両手でしっかりと握りこみ、不恰好な様子にもかまわず、必死に地面を漕ぎ進んだ。

「なんじゃ、歩こうと思えば、歩けるわい」

 激しく息切れしながら、手の平を豆だらけにして、かれはうそぶいた。


 三角の切妻きりづま屋根の小家に辿りつくと、ちいさな男の子が戸口にいて、貝殻の独楽こまを回していた。

「あ、殿」

 子供ながらに景義の顔を見知っていて、聞かれる前に答えた。

「父ちゃん、母ちゃんは、田んぼさ、出てる」

「お前の姉上は?」

「姉ちゃんは寝てる」

 住居は、半地下式である。

 戸口から竪穴たてあなの暗がりをのぞくと、娘はむしろにくるまって横になっていた。


 ――かれは娘の名を、そっと呼んだ。

「宝草」

 娘は眠っていた。


「入るぞ」

 童は戸惑い顔を見せたが、景義はかまわずいざりこみ、入口の梯子を転げるように滑りおりて、枕元まで這って行った。


 目を覚ました宝草が、かすれ声で、夢うつつに呟いた。

「まあ、殿」

「すまぬ、俺のせいだ。冷たい海に入らせたので、風邪をひかせてしまった」

 宝草は首を、わずかにふった。

「……いいえ……わたしは風邪など、ひいたことは……」

 と、力なく、謎めいた微笑を作り……すぐに打ち明けた。

「けれど、こたびは月のものが重くて……」


(アッ――)

 ……まったく、とんだ勘違いであった。

 景義は言葉を失い、あわてふためき、光が差し込む竪穴たてあな住まいの、あなたこなたに視線を踊らせた。


「……けれど殿がいらしてくださるなんて、ほんに、夢のよう……」

 宝草はつぶやいて、真赤な頬をうっとりと微笑ませ、長い睫毛を伏せるのだった。



 宝草は、景義から名を授かったときのことを、本人も意外に思うほど、鮮明に記憶していた。

 それは、ことあるごとに父親が、「お前の名前は、殿さまがお恵み下さったもので……」と口にするからで、その度ごとに記憶がよみがえるのである。


 あの時、幼女だった宝草は、「名前」というものが何だかわからなかったが、とても大切なものを自分はもらえたのだ……ということだけは、はっきりとわかった。

 幼い胸が、ぽおっと、熱くなった。


 「宝草」という名前と、幼女の頃に抱いた感動の気持ちとが、成長してからもずっと、彼女の人生を明るく照らしつづけていたのである。

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