第72話 景義、萎れた花に気づくこと
その晩、館に帰るやいなや、景義は目標を立てた。
まずは杖を使って自由に歩けるようになること。
次に、馬をふたたび自由に乗りこなせるようになること。
具体的な目標が決まると、途端に生きる希望が湧いてきた。
近頃まれにみる主人の明るい顔に、助秋は(おや……)と気づいたが、なにもいわずに普段どおりの報告を済ませた。
ちいさな花芽が頭を出しかけたのを、そっと大事に、見守るような心もちである。
立ち去ろうとしたその背中に、景義が声をかけた。
「おい、助秋」
「は」
景義はなにか言いかけて、やめてしまった。
「……ハハハ、なんでもない。行け」
助秋はやはり、なにも気づかないふりをして、主人に背中を向けてから、微笑した。
――翌日、景義はふところ島の職人たちを呼び集めた。
まずは杖である。
今まで使っていた適当な間に合わせのものではなく、自分の体にぴったりと合ったものが必要である。
「できるだけ、軽い材にしてくれ」
「ならば
「頼む」
次に、特別製の馬具である。
力の入らぬ左膝を固定したいところであるが、完全に固定してしまうと馬が倒れた時に逃げることができず、馬の下敷きになってしまう恐れがある。
景義と職人たちは様々な案を出しあい、一緒になって議論した。
これは実際に試しながら造っていくことになった。
またたくまに、数日が過ぎた。
◆
「休息万病、休息万病……」
と、まじないを唱え、端切れで鼻をぬぐった。
(季節はずれの冷たい海に入ったから、風邪でもひいたか……)
花棚に、撫子の花が寒々しく、うち
景義は雑仕女を呼び、片づけさせた。
雑仕女は、花籠を抱えながら言った。
「いつも花を持ってきてくれる娘ッ子が、ここのところ参りませんもので、花のことなどすっかり忘れておりました。その娘ッ子がねぇ、『殿は自由に外歩きできませんじゃろうから、おかわいそう』と言うて、毎日毎日、違う種類の花を取りそろえて、持ってきてくれておりましたのよ。風邪でもひいたのかしら……」
この話に、景義は胸を打たれた。
そしてふと、ひらめくものがあった。
「その娘、名は何という?」
娘の名を聞いた途端、景義は屋敷を飛び出した。
まにあわせの杖は重すぎて、長すぎて……一歩進むにも、たいへんな時を要した。
だがそれを両手でしっかりと握りこみ、不恰好な様子にもかまわず、必死に地面を漕ぎ進んだ。
「なんじゃ、歩こうと思えば、歩けるわい」
激しく息切れしながら、手の平を豆だらけにして、かれはうそぶいた。
三角の
「あ、殿」
子供ながらに景義の顔を見知っていて、聞かれる前に答えた。
「父ちゃん、母ちゃんは、田んぼさ、出てる」
「お前の姉上は?」
「姉ちゃんは寝てる」
住居は、半地下式である。
戸口から
――かれは娘の名を、そっと呼んだ。
「宝草」
娘は眠っていた。
「入るぞ」
童は戸惑い顔を見せたが、景義はかまわずいざりこみ、入口の梯子を転げるように滑りおりて、枕元まで這って行った。
目を覚ました宝草が、かすれ声で、夢うつつに呟いた。
「まあ、殿」
「すまぬ、俺のせいだ。冷たい海に入らせたので、風邪をひかせてしまった」
宝草は首を、わずかにふった。
「……いいえ……わたしは風邪など、ひいたことは……」
と、力なく、謎めいた微笑を作り……すぐに打ち明けた。
「けれど、こたびは月のものが重くて……」
(アッ――)
……まったく、とんだ勘違いであった。
景義は言葉を失い、あわてふためき、光が差し込む
「……けれど殿がいらしてくださるなんて、ほんに、夢のよう……」
宝草はつぶやいて、真赤な頬をうっとりと微笑ませ、長い睫毛を伏せるのだった。
宝草は、景義から名を授かったときのことを、本人も意外に思うほど、鮮明に記憶していた。
それは、ことあるごとに父親が、「お前の名前は、殿さまがお恵み下さったもので……」と口にするからで、その度ごとに記憶がよみがえるのである。
あの時、幼女だった宝草は、「名前」というものが何だかわからなかったが、とても大切なものを自分はもらえたのだ……ということだけは、はっきりとわかった。
幼い胸が、ぽおっと、熱くなった。
「宝草」という名前と、幼女の頃に抱いた感動の気持ちとが、成長してからもずっと、彼女の人生を明るく照らしつづけていたのである。
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