第69話 景義、ふところ島に還ること



   二



 今は昔――


 保元の戦も、過ぎにし秋。



 景義は輿に揺られ、人足たちに担がれるまま、まるでひとつの重たい荷物のように都から帰ってきた。

 もの珍しがって集まってくる群衆を、雑色たちがいちいち追い払った。


『平太、お前、相模へ帰れ』

 一番恐れていたその言葉を、景義は義朝の口から聞いた。


『俺は、まだやれます。都で働かせてください』

『いや、無理だ、その脚では。帰れ』

頭殿こうのとのッ』

 必死の抗弁も、聞き入れられなかった。


 ふところ島に帰りついて幾日かのあいだ、景義は放心状態であった。

 砕かれた膝の痛みにはだいぶ慣れてきたものの、脚全体にまったく力が入らず、歩くことも、みずから用を足しにゆくことも叶わなかった。

 人に手伝わせ、馬に乗ってもみた。

 ……ほんのしばらくは耐えられたが、ふんばりがきかず、やがて馬の背から見事に転げ落ちた。


(なさけない……)

 この先、自分はどうやって生きていけばよいのか……不安の暗闇が急に襲いかかってきた。

 戦場を駆けるつわものとしても、源家や貴人に仕えるさむらいとしても、もはや役には立たない。

 それに加え、いまや若い盛りは過ぎ去ろうとしている。

 ぶ厚い霧に閉ざされてしまったように、突如として将来が見えなくなった。


 旅の疲労も加わって、何をするのも億劫であった。

 頭と体がずっしりと重かった。

 特別、すべきこともない。

 一族の実権はすでに、弟たちに譲り渡している。

 ふところ島の経営も、すべて助秋すけときに任せた。


 悪四郎が保元合戦の話を聞きに訪れた。

 合戦に参加できなかったことをしきりに悔しがる悪四郎に、景義はかいつまんで様子を話し、名誉の負傷を自慢してみた。

 とはいえ、その実、心は虚しかった。

 以後、近隣の武者たちが来訪してくると、やまいと称し面会を断った。

 引き篭もってしまうと、時の流れは速い。

 冬が来て、春になり……また、夏が訪れた。





 大きな花籠が縁頬えんがわに据えられ、美しい花々に彩られている。


 不機嫌に寝てばかりいる主人の気を、すこしでも盛り立てようとてか、近頃、雑仕女ぞうしめたちが頻繁に、整えて持ってきてくれるのだ。

 最初のうち、景義は気づきもしなかったが、ふと心づいて、目を止めるようになった。


 今、ひときわ輝いているのは大和撫子やまとなでしこで、鳥の羽根のような花びらを、かろやかに、弾けるように広げている。

 着飾った幼子おさなごが、舞姫の真似をする姿に似て、可憐である。


(今頃、海沿いには撫子の花が咲き競い、さぞかし美しいことだろう。盛りは過ぎていようが、今見にゆけば、間にあうか……)

 ひさしぶりに、外出する気になった。

 四人の若い雑色たちに輿こしを担がせた。

 輿といっても、板きれと棒きれを組み合わせた程度の、粗末なものである。


 外に出ると、空は一面、灰色の雲に覆われていた。

 日暮れ時も近い。

 景義は、雑色たちを急がせた。


 ふところ島は、海の島ではない。

 幾本もの川に挟まれ、湿地や沼地に取りこめられたその場所を、人はふところ島と呼んでいる。

 沼地を縫って輿を進ませるうち、やがて目の前いっぱいに、紫の花の野辺が広がった。


 撫子はまだ、あちらにもこちらにも花を咲かせていた。

 ところが景義の心は、自分でも意外なほど、感興を覚えなかった。

 ――心が、動かなかった。

 ただただ、ぼんやりとしてしまって、うちつづく花のなかを、木偶でく人形にでもなったような心持ちで運ばれていった。


 撫子の原のむこうに、もう海が見えていた。

 海鳥が、しきりに鳴き騒いでいる。

 胸さわぎするような、波のざわめきが聞こえてくる。

 風は爽やかではあったが、ひんやりと冷たく、潮の香りにまじって一抹の寂しさを運んでくる。


 ひとりの少女が、草の汁に指先を染めながら花を摘んでいた。

「そなたは……」

 尋ねると、少女は日焼けした顔を恥ずかしげにうつむけながら、ささやくように言った。

宝草たからくさです」

「ほう……大きうなった……」

 ――昔、自分が名を授けた、あのわらわであった。


 景義はちいさな驚きに打たれ、少女の姿に見つめいった。

 年の頃は十四、五にもなったろうか、髪をうしろで縛り、小袖の腰に布を巻き、体つきもずいぶんと大人らしくなっていた。


 景義は四人の担ぎ手を休ませると、少女を近くに呼び寄せた。

 その場所から、波のうちよせる白い砂浜がよく見えた。


「ほんに、しばらくぶりだ。都に出てからは、故郷くにのことは弟たちにまかせっきりだったからな」

「殿が都に行ってしまってからは、みなで殿の御無事を祈っておりました」

 健気らしい様子で、宝草は言った。

「そうか、かたじけない。そのおかげで命は長らえたよ」


 言いつつ、景義は自嘲気味に笑った。

「……このような不自由な身になってしまったが……」

 つまらない、余計なひとこと、であった。

 宝草は返事に困って、またうつむいてしまった。

 それに気づきもせぬまま、景義はひとり自分の暗い想念のなかへと引きずり込まれていった。

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