第68話 於政、頼朝に迫ること

 於政は後ろへよろけつつも、悲鳴ひとつあげない。


 それどころかいっそう眼光を増して、頼朝の目を逃すまいとした。


「ここが切所にございまするぞ。さあ、お答えください。どちらを選ぶのです。わたしは、わたしひとりの我侭わがままのために、このようなことを申しているのではございませぬ。鎌倉のため、御家人たちのため、なによりもあなた様のためを思うて言うておるのでございます。

 今は調子づいて快楽に溺れている時ではありませぬ。あなた様がそのようなお心弱い姿を見せれば、御家人たちの心は自然と離れてゆきましょう。この御所に他家が入り、無用ないさかいが生ずれば、鎌倉は御所のうちから、滅びてゆきましょうぞ」


 激情に狂いながらも、於政の言葉は理路を踏まえている。

 激すれば激するほど冴えわたる女であった。


「……確かに、あなた様の父君、祖父君は多くの妻をお持ちだったことでしょう。けれど、今と昔とでは異なるのです。今、あなた様は祖父君も父君も成し得なかったことを、やってのけようとしておられるのです。東国の諸氏をひとつに糾合し、恐るべき朝廷を相手に、誰もが成しえなかった、まったく新しい仕組みを創ろうとなさっておられる。わたしにはそれがわかります。

 それがためには、父君や祖父君とは異なる、新しいやり方が必要です。あなた様とその伴侶であるわたしとがきつく手を携え、心をひとつにしてゆくことが、どうしても必要なのです。

 わたしは、あなた様のお苦しみもお喜びも、ともにずっと見てきた。わたくしめこそ、あなた様を理解できる、たったひとりの女でございますぞ。

 よもや藤九郎殿の夢をお忘れではございますまい。まやかしのような快楽に溺れている時ではございませぬ。さあ、お答えくだされ、さあッッ」


 声のかすれるまで、叫び倒した。


 頼朝はこれを聞いてなお、沈黙している。

 やがて、憮然として背をむけた。


(お逃げでございますか――)

 於政は叫ぼうとしたが、声にならなかった。

 今この瞬間、自分は夫のすべてを失ったのかもしれない――恐怖がふいに、心をすり抜けた。


 於政をその場に残し、頼朝はなにも言わずに去っていった。

 その背中が冷然と、於政を拒んでいた。

 女は熱病にとりつかれたかのように身をふるわせると、嗚咽をあげ、崩れ伏した。





 翌日の昼さがり、於政が、北の対の御帳台みちょうだいに引き篭もっていると、突然、うすものとばりが押しあげられた。


「無体な」……於政はとっさに、袖で顔を隠した。

「於政」

 ――頼朝だった。


「なんでございます?」

「亀姫を故郷くにに帰した」

「左様でございますか」

 於政は袖をすこしだけさげて、泣き腫らした瞳をのぞかせた。


「これで文句はあるまい」

 身を寄せて強引に抱きすくめようとする頼朝に、於政は剛直に抗った。

「いけませぬ、いけませぬ」

 頼朝は不機嫌に、動きを止めた。


「いけませぬ…………」

 うって変わった、消え入りそうなほどのかよわい声で、於政はささやいた。

「……塗籠ぬりごめにて……」


 音だに漏れぬ塗籠のなか、於政は夫の激情を、身のうち深くに受け入れた。

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