第57話 水沢の小家のこと




   三



 雨がしくしくと、ふりつづけている。

 水沢のほとりの小家は、目の覚めるような新緑にとり囲まれている。


 枝葉をすりぬける雨が、次々と波紋のかさなりを生んで、水面はたわんだり、すきとおったり……。

 岸辺では、濃い紅、うす紅、白……あざやかなついろ色のの花が、しずくをふるってふるえている。


 景色は水面にも映りこみ、水のなかにまで、とりどりの花が揺れている。

 花の色が雨に溶け出し、池に流れたかのよう。

 雨の匂いにまじって、どこからか豊潤なたちばなの香りがした。



 景義に誘われ、毘沙璃は行き先も聞かずについてきてしまった。

 ふたりで会うのは何年かぶりのことであったから、すこし、楽しみにもしていた。


 神明宮の神館かんだちを出る前から、雲は低く垂れ込め、降りだしそうな予感はしていた。

 案の定、雨はほつりほつり降りだして、景義は馬をこの小家へと急がせた。



 ――高欄のある縁側に横ずわりして、毘沙璃は、水辺の様子を陶然と眺めていた。

 雨がかすかに降りこんで、膝元を濡らす。

 珍しい、白い杜若かきつばたが咲いている。

 透きとおるような花びらが、つららを砕いたような雨粒をまとっている。

 まるでたった今、水から生まれ出たばかりのように、清らかで愛らしい。


 毘沙璃はうっとりと、ため息をついた。

 するとふいに、なんの前触れもなしに、大きな花びらの一枚がふるえながら、はらりと落ち、水の上に重たい波紋を広げたのである。

(まあ……)

 雨垂れの重みに耐えかねたのだろうか。

 毘沙璃はほんのすこし、奇妙な感じがした。


 ようやく馬の手入れを終え、景義があがりこんできた。

 逞しく日に焼けた、輝くような青年だ。

 かれの足元で、床が重くきしんだ。


「ここはなんとも、すばらしい庭でしょう」

 童どうしのように遠慮もなく身を寄せて、景義は言った。


 毘沙璃は、こくりとうなずきながら、ため息をついてささやいた。

「浄土のような……。それとも、美しい曼荼羅のような……」


 庭の景色が目になじむにつれ、ふたりの話にも、次第に花が咲いていった。

「……坂東諸氏連合は、日の出の勢いだ。そのおかげもあって、俺はついに一族の総領の座も継いだ。大庭の領地のすべてが、俺のものとなった。昔、毘沙璃が言ったとおりになった」


 景義は得意げに話したが、毘沙璃はひそかに眉を曇らせた。

 かれが強引なやり方でそれを行なったことを、耳にしていたからだ。

 毘沙璃の表情の微細な変化にも気づかず、景義は自分の話に夢中になっている。

 袖に、橘の花を忍ばせているのだろうか。

 ……似あいもせぬ、洒落た香りがする。


 ふいに、あざやかな緑色が目の端に跳ねた。

 毘沙璃が視線を走らせると、苔むした庭石の上に、すきとおる雨のころもをまとった蛙が一匹、つやめきながらたたずんでいた。


「……俺は鎌倉一族のあるじとして、京はもちろん、全国を股にかけて飛び歩いている。怖れるものはなにもない。俺は今、毎日が楽しくて仕方がないんだ」

「都で、いい女性ひとでもできましたか?」

「ハハハ、いい女性などと……俺の胸のうちを、知っていように……」


 すこしだけ、沈黙があった。

 何気ないそぶりで居ざり寄った景義は、若々しい、自信あふれる燃えるような目を見せ、毘沙璃の瞳の内側をのぞきこんだ。

「俺は、すべてを手に入れた……あなたのほかには……」


 気づいた時にはもう、すべらかな白鳥の手首は、景義の武骨な手のなかに奪われていた。


ッ)

 声を立てる暇もなかった。

 毘沙璃は座したままに体を奪われ、逞しいかいなのなかに包みこまれていた。

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