第58話 毘沙璃、幻視を見失うこと
瞬間、固い芯のようになって、毘沙璃は身を強張らせた。
けれどついには、みずからの内からたぎり
(心が、とろける……)
毘沙璃は正気を失いそうになりながら、野性が匂いたつ景義の熱さのなかに埋もれていった。
屋根の端から、水滴の塊が、はやるようにしたたり落ちて、
ひとつふたつ、
みっつ……
よっつ……
……白く煙るような視界の端を、脚のもげた黒い
ずるり、ずるり……
これを見た毘沙璃の胸に、奇妙な違和感が泥水のように押しひろがり、あふれ返った。
これまで感じたことのない、得体の知れぬ違和感だった。
耐えがたいほど、激しい動揺に襲われた。
毘沙璃はひとりの巫女に戻って、魂の均衡を取り戻そうと、必死にその原因を探しもとめた。
(あ……)
心のうちにめくるめく甦ったのは、いくつもの瞬間の映像である。
それは一枚だけ不思議と剥がれ落ちた、花びらの白……
それは、池端の雨蛙の、あざやかな緑色……
そういえば、あの蛙も、千切れたように後ろ脚が欠けてはいなかったか……
それは、脚のもげた、黒い
(……おかしい、なにかがおかしい……)
すると毘沙璃の心いっぱいに、幻の光景が広がった。
いつか見たあの夢――
川原で体を休めているのは、毛並みのよい一頭の若駒だった……
若駒が立ちあがった時、片方の後ろ脚を引きずるようにして……
『行って、助けておあげ』……婆さまの声が、間近に聞こえて……そして、そして……
未来の光景を掴みかけた、その瞬間――耳元にふきつけられた熱望の吐息が、巫女の魂を無理やりに、
景義が、囁いた。
「この家には誰もいないし、誰も来ない。誰も……知らない……」
毘沙璃はふるえながら、細い指を張りつめ、力なく抗った。
「……誰も見ずとも、天が、見ているわ」
「
景義は自分の体ごと、やさしく、毘沙璃の体を横たわらせた。
どっと押し寄せるように、水沢と緑の、歪んだ鏡の世界が、毘沙璃の瞳になだれこんできた。
景義の唇が、首筋を吸う、胸を吸う。
熱しきった大きな手のひらが、火照った
お互いがひたすらに秘めていた熱情が、抑えきれない奔流となって絡みあってゆく。
毘沙璃は耐え切れず、烏帽子の頭を、胸の内にかき
……雨が、降っている……もどかしげに、景色をかきむしるように……霧のような雨が、降っている……
ハッと気がついて、景義は身を起した。
透きとおるほどに白い花びらが、あざやかな桃色にそまったまま、落ちはやる
「……なぜ、泣いているのです」
ため息のような、景義のかすれ声に、毘沙璃はなにも答えなかった。
ただ滔々と、自分でも理由のわからぬ涙が流れた。
しばらくのあいだ、ふたりは体を絡みあわせたまま、身動きひとつせず、雨の音だけを聞いていた。
「わたしを……苦しめないで……」
その言葉を聞くや、景義は急に気勢を失い、うなだれた。
ふたつの涙が静かに、音もなく垂れて、ひとつにまざりあった。
落ちしおれた花びらのように折り重なったまま、ふたりは時のたつのも忘れ、雨垂れの陰にふるえていた。
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