第24話 景義、藤の丘を登ること

 春風のそよぐなか、なだらかに連なる丘を、馬は並足で軽快に歩んでゆく。


 沢には清らかな水がきらめいて、とりどりの花々が豊潤な香りを競いながら、虫たちを惑わせている。


 丘のたもとまで来ると景義は馬からおり、愛馬に水を飲ませた。

 沢の水はぬくんで、やわらかな人肌のようだった。

 盛りあがり、脈打ち、ところどころで白い渦を巻きながら、虹色に輝いている。


 水面に笑みこぼれた花びらのあいまから、細かな光の粒が気まぐれなまたたきを繰り返している。

 見あげれば、頭上の八重桜は、枝をたわませるほどに重たく咲きあふれ、花々のひとつひとつがちいさな日輪のように輝いて、影もとろけるばかりに樹間は明るい。


 景義は差し縄を、手頃な樹につないだ。

「おとなしく待っておれよ」

 馬にやさしい声をかけ、両足のおもむくままに歩んでゆくと、すぐ近くに、別の馬がつながれているのに出くわした。


 鞍は漆塗りの高価なもので、洲浜すはまからいそにかけて豪華な螺鈿細工が施されている。

 その上からみやびやかな風情で、桜の花びらが散りこぼれていた。


(いい鞍だな……)

 景義は思わず、黒漆の表面に手をすべらせた。

 比べてみれば、自分の鞍はなんの装飾もない、実用本位の使い古しでしかない。

 すこし羨ましく思った。


 ふいに遠くのほうから、こぼれるように、微かなつづみが聞こえてきた。

 それはまるで、見知らぬ彼方の桃源郷から、風に乗って運ばれてくるかのようであった。

 景義は顎をあげ、夢見心地に丘を登った。


 たちまち全身に汗が、じっとりとにじんできた。

 夏をきざす熱気が、頭を痺れさせ、心をぼんやりとさせる。

 ひんやりした風が、ほんの時折、花の香とともに吹き抜けて、汗ばんだ首筋を爽やかにしてくれた。


 ――どれほど登っただろう。


 黒松の幹に手をかけ、そのむこうがわをのぞきこんだ時、思わずも、かれは息を呑みこんだ。

(なんと、壮麗な……)

 その場所は、樹々の緑にとりこめられた、天然の花室はなむろであった。


 幾本もの黒松が、巨大な柱のように周囲を取り囲んでいる。

 肉感的に身をよじらせるその黒い巨体に、白くしなやかな藤の蔦枝がなまめかしく絡みついている。

 松も藤も、肌に水気を帯び、しっとりと、汗ばむように濡れている。


 見あげれば、紫の霧がつめたく降り落ちてくるかのように、万朶ばんだの藤花が天をうずめつくしていた。

 熟した果実のような香りは、まさにそこから押し寄せてくるのだった。


 香気は、先ほどよりも格段に強まって、酔わんばかりか、眩暈めまいをさえ覚えるほど……

 ふと目の前を、白い光がよぎり去った時、景義は身を隠し、息をひそめた。


 濃密な紫の霧のなかを泳ぐようにして、しなやかな手足をのばし、きゃしゃなおとがいをかしげ、今、ひとりの巫女が舞を舞っていた。


 景義の心は、たちまち燃えあがった。


(毘沙璃……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る