景義の、鎌倉屋敷はどこに? 4
◆ 補強史料
第四史料
『吾妻鏡』
「1212年
3月16日 癸亥
前浜の辺を屋地として、御家人等に分け賜う。
清図書の允これを奉行す。」
……この記事は、「浜の土地を、御家人たちが幕府から頂いた」という内容の記事ですが、ここに載っている御家人たちを見てみると、「もともと、由比や小坪などの前浜地域に宅地をもつ御家人」が、選ばれているようだと気づきます。
「土屋」「和田」は、第一史料と共通する二家です。
「牧」も、由比が浜に土地を持っていることは、『吾妻鏡』1192/10/30に記載があります。
「1192年
10月30日 己巳 南風烈し
亥の刻に武者所宗親が 濱の家 焼亡す。
宗親折節他所に在り。煙を見て走り向かい、筝を取り出さんと欲するの間、左方の髭を焼くと。
唐国大宗の髭は、薬を賜るの仁に施す。
和朝宗親が髭は、絃を惜しむの志を顕わす。
焼く所は同じと雖も、用ゆる所相異なるものか。」
「波多野次郎」は、「波多野 中務の丞 忠綱」で、1213年の和田合戦の記事を見ますと、米町の合戦に、一番に駆けつけています。
米町は、由比郷のすぐ北です。
このことは、波多野次郎が由比郷に屋敷をもっていたことを示唆しているように考えられます。
「長江」は、景義と同じ、鎌倉一族です。
由比ガ浜の東、小坪に屋敷をもっています。
「堺」は、千葉家です。
千葉家も、小坪の海に近い、
ここに出てくる、「土屋」「和田」「波多野」「長江」「千葉」、これらはすべて義朝の家臣団ですから、頼朝入府前から、前浜の地帯に屋敷地を持っていたと考えられます。
……そういうわけで、この第四史料は、もともと由比ガ浜近辺に屋敷地をもっていた者が、領地を付加されたと見るべきでしょう。
子孫が増えるとともに、従来の土地が手狭になったため、新たな土地を必要としたための拡張だったのではないでしょうか。
この第四史料は、第一史料に見られる「和田宅」「土屋宅」が、由比にあったという説を、補強するものと考えられます。
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