景義の、鎌倉屋敷はどこに? 3

◆ 土屋次郎宅について


 さて、和田宅の隣にある、「土屋次郎」宅――


 これは、かつての「岡崎四郎」宅だったのだろう、というのが、僕の見解です。

 (土屋次郎は、岡崎四郎の嫡男)


 「岡崎四郎宅」は、『吾妻鏡』に度々出てきます。

 頼朝が由比を訪れた際に、岡崎四郎宅を必ず訪れるのです。

 そのことから、岡崎四郎宅は由比郷にあったと考えられます。



「1186年

9月7日 庚戌


 二品 由比・深沢を歴覧せしめ給う。

 岡崎の四郎義實 駄餉を献ると。」



「1187年

7月23日 壬戌


 二品 海浜を逍遙し給う。

 故一條の次郎忠頼の侍 甲斐の中四郎秋家 これを召し具せらる。

 歌舞を以て 業と為すの者なり。

 由比浦に於いて小笠懸の後、岡崎の四郎の宅に入御す。

 御酒宴の間、秋家 舞曲を尽くすと。」



「1187年

10月2日 己巳


 二品 由比浦に出でしめ給い、牛追物有り。

 重朝・義盛・義連・清重等 射手たり。

 還御の次いでに岡崎四郎の宅に入御す。

 盃酒を献る。


 この間 故余一義忠子息の小童を 召し出し見参に入る。

 義忠 命を石橋の戦場に棄つ。

 勲功 他に異なるの間、殊に憐愍し給うと。」




 1200年まで、土屋次郎は、亀谷に住んでおりましたが、(現;寿福寺)

 幕府がお寺を造るために、追い出されてしまいます。



「1200年

 閏2月12日 戊戌 晴


 尼御台所の御願として伽藍を建立せんが為、土屋の次郎義清が亀谷の地を点じ出す。

 これ下野国司の御旧跡なり。

 その恩を報ぜんが為、岡崎の四郎義實兼ねて草堂を建てるものなり。

 今日、民部の丞行光・大夫屬入道善信件の地を巡検すと。」



 この直後、親父殿、岡崎四郎が亡くなります。(1200/6/21)

 以後、この由比の岡崎四郎宅を、土屋次郎が相続したのだろう、と考えられます。


 なお、景義と岡崎四郎とは、一緒に出家するほど、仲がよかったのです。

 そういう状況からも、隣同士で住んでいた、というのは、納得いくことです。



 また、第一史料から導かれる、「ふところ島景義」「岡崎四郎」「和田」、という三家は、源義朝の家臣団で、その時代から(頼朝入府以前から)由比郷に集まって住んでいたという考えは、とても自然に思えます。

 由比郷は、東海道が通る土地で、義朝在世の頃には、にぎわしく栄えていたのではないでしょうか。

 その家々が、そのまま、頼朝の時代まで残った、と考えられます。

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