第84話 景親、斬首の近づくこと

「歌を詠んで日々を過ごしている、酔狂な囚人がいると聞いた」


 やつれきった景親の前に、ある日、ひとやの戸が開かれた。

 そこには、立派な官服をまとった、恰幅かっぷくのよい男が立っていた。


 獄中、景親は、切ないばかりにあざやかに甦ってくる坂東の景色を、歌につづって過ごしていた。

 墨と筆とは与えられたが、紙は与えられなかった。

 それでしかたなくかれは、壁の上に文字を書き連ねた。


 歌をひとつ記せば、暗く殺風景なひとやのなかに、ひとつ花が咲いた。

 またひとつ記せば、それは灯りとなって、景親の心を照らした。

 またひとつ、記した。

 記せば記すほど、鳥が歌い、風が微笑み、月が巡った。


 今では緑の葉むらのおい茂るがごとく、四方の壁を、文字が旺然おうぜんと埋めつくしていた。

 それらの文字はとらわれびとの景親にとって、花のみこぼれ、走獣遊ぶ、坂東の野辺に他ならなかった。


 あれから、はや、一年ひととせが過ぎていた――


 その一年の間、この壁を見ておもしろがったのは、官服のこの男が初めてである。

 男は文字の原野に大きな目玉を走らせながら、いかにも他人事のように言った。

「明日、そなたは斬られるそうだ」


 体が細かくふるえ出すのを、景親は感じた。

 顔は伸び放題の髭に覆われ、暗くやつれ果てている。

 しかし気力のほうは、いまだ衰え切ってはいなかった。

 容儀立派な人物を目の前にして、景親はつわものとして潔い言葉を、口に選んだ。

「お教えいただき、ありがとうございます。長いあいだ、この時を待ち望み申した」


 男はふり返って、景親の顔をまじまじと見つめた。

「しかし、斬られずに済む方法もあるぞ」

 男の明るいまなざしに、景親はつり込まれた。

如何いかな?」

 男はうなずいた。


「そなた、平氏の一流だそうだな。私と先祖は同じであろう。しかも調べてみれば、伊勢太神宮御領の領官とか。わが本領も、伊勢である。これは奇縁と言うほかあるまい。そなたは家に名があるばかりか、武勇にすぐれ、教養にもすぐれ、わが一門に加わる資格は充分すぎるほどに備えている。このような汚い所に放りこまれていること自体が、なにかの間違いに等しい」


 そこで、どうだ……と、男は自信に満ちた表情で、にこりと笑った。

「私に忠誠を誓わぬか? わが一門に加わり、坂東の地で、わが手足となって働いてもらいたい。先の戦でそなたが仕えた義朝は、すでに滅びた。もはや滅びた者に忠義立てする必要もあるまい。わが一門に加わるならば、けして悪いようにはせぬ」


「貴殿の……御名は?」

たいらの大卿たいきょう


(平の……大卿?)

 こともなげに告げられた、その名――景親は初め、その名前の恐ろしさに気がつかなかった。

 ようやくのこと、それが敵の侍大将の名だと思い至るや、雷に撃たれたような衝撃を受け、あわてて背後の壁に引き退いた。

(――たいらの清盛きよもりかッ)


 清盛はまた、一歩踏み込んで、言った。

「私は忙しい男だ。すぐに宮中に戻らねばならぬ。今、ただちに返事をもらおう」


 考えているいとまはなかった。

 景親は、清盛の目を見あげた。

 その両目が、ふたつの日輪のごとくに、まぶしく輝いている。

 景親の胸の底でもがきつづけていた生命の鼓動が、苦おしいほどにその日輪を切望していた。

 坂東に帰れる。

 もう一度、妻子に会える。

 会いまみえたならば、妻の喜びは、子の喜びは、いかばかりであろう。

 その顔が見たい――


 生きたい、生きたい、生きたい――ッ


 魅惑的な色彩が、洪水となって景親を溺れさせた。

 気がつけば、かれは背筋を正し、床にぬかづいていた。

「よろしくお頼み申しあげます」


「よろしく頼む、たいらの景親」

 清盛は胸をそびやかし、豁然かつぜんと笑った。

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