第79話 波多野尼、胸中をうち明けること




   二



 燕の飛ぶ季節になっていた。


 ふところ島の野辺は一面のちがやの穂。

 すずやかな風に、穂の波がいっせいになびけば、眩しいばかりの白銀色の海となった。

 燕の影が風を切って、野面のづらをかすめ飛んでゆく。


 わらわたちは草の海の奥ふかくに分け入って、若くて甘い花穂を探し出し、摘んでは噛み、摘んでは噛み、天にも届くような笑い声をたてながら、はしゃぎまわっている。


 雲のように大きく枝葉を張り出したタブの木の陰に、景義が、ひとりの尼と言葉を交わしていた。


 波多野尼――景義の姪で、有常の母である。

 年の頃は三十すぎ。

 夫の義常の没後、すぐに髪を薙いで、尼となった。

 薄墨色の衣をまとった彼女は、伯父を前に、苦しい胸のうちを吐露していた。


「わたしが悪かったのです。あの日、みどり御前ごぜんが『どうしても……』とおっしゃったものですから……。『夫殿と陽春丸の最期が見たい、連れていっておくれ』と、必死にせがまれるのです。どうして断ることができましょう。わたしも緑御前も、いわば同じ立場。他人事とは思えませんでした」


 景親、緑、陽春丸。

 そして、波多野義常、波多野尼、有常。

 ……両者は昔から、家族ぐるみのつきあいがあった。


「……わたしはあの日、緑御前を連れて、片瀬川に行ってしまったのです。あのおそろしい斬首の光景を見て以来、緑御前は正気を失われてしまいました。わたしは今では、あの時のことを後悔しております。すべてわたしのせいなのです」


 緑の心の傷は大きく、出家をも頑なに拒んで、日々を無為にやり過ごしていた。

 緑の心にはただただ景義への、幕府への、深い恨みのあるばかりであった。


 ……景義は悲しみにおもてを曇らせ、それがやがて、慈しみの表情へと変わった。

「そなたのせいではない。誰のせいでもない……そうであったか……そなたもさぞかし思いつめて、つらかったであろう」

「……今でも夜な夜な、悪夢に、あの時の処刑を見ます」

 うちひしがれた様子の姪の背に、景義は、ぶ厚いてのひらを置いた。


「そなたの夫の波多野殿も、景親も陽春丸も、幕府の罪人なれば墓をおおやけにすることもできぬ。魂は成仏できず、いまだこの世を彷徨さまようておるやもしれぬ。よくよく日頃の供養を怠るまいぞ」

 うつむき加減のまま立ち去ろうとした景義を、波多野尼は引き止めた。


「伯父上」

「なんじゃ?」

「……有常が、最近はよく笑顔をみせるようになりました。緑御前が伯父上を悪く言うのが、私には、つろうござります。伯父上は私たち母子にとっては救いの仏でございますれば、いくら感謝しても、感謝しきれませぬ」

 涙ながらに深々と頭をさげようとする波多野尼を、景義は押し留めて言った。


「これこれ、他人行儀な。有常はわしの孫のようなものじゃし、そなたはわしの娘も同じじゃよ」

 景義が唇をすぼませ、妙に剽軽ひょうきんな笑顔をつくったので、波多野尼はつられて、ふっと表情をゆるませた。


「わたしが童の頃も、そうやって面白い顔をして、泣いているわたしを慰めてくれましたね……」

「ふぉふぉ、そうじゃったかのう」

「……これ……」

 と言って、波多野尼は懐中の守り袋から、一枚の貝殻を取り出してみせた。


 ――形のよい桜貝であった。

 年月をり、ところどころが落剥している。


「大むかしに、伯父上と一緒に、宇佐美の海で拾ったものです。こうして今でも、御守がわりに持っているのですよ」

「おお、なつかしいのう……」

 景義は目元をゆるめた。

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