第六章 なでしこ

第66話 御台所、御出産のこと

第二部  新 都 鎌 倉 編


第六章  な で し こ




   一



 治承六年、八月はづき十二日――



「殿ッ――」

 助秋のただならぬ声に、景義の浅い眠りはうち破られた。


 ……いつのまにやら居眠りしてしまったようだ。

 戦友の師岡もろおかと語りあっていたせいだろうか……保元の頃の記憶を、夢に見たようである。


御台所みだいどころ様の、陣痛がはじまりました」

「なに?」

 産所に定められた名越なごや比企ひき邸では、御台所様――於政のお産が始まろうとしていた。


 隣で同じように居眠りしていた師岡も、あわてて水をひとくち含み、立ちあがった。

 景義は縁の端から、輿にいざり乗った。

 夕方、薄暮の頃で、庭の樹々はまだ明るさを留めている。


 景義や師岡などの役職は、みな白い浄衣じょうえを着用していた。

 走りまわっている女房雑仕女たちも一様に、みな白い衣である。

 床には白米が撒かれ、内装のしつらえも、几帳から畳のへりまで、なにからなにまで真っ白であった。

 この白の御殿の奥に御簾をおろし、お産はすでにはじまっていた。


 そこでは於政が、両腿を広げて座した格好で、あらけない苦悶の叫びをあげている。

 産婆が向かい合わせに座り、妊婦の体を必死の形相で抱きかかえている。

 そのすぐかたわらに毘沙璃がつきそって、魔をはらう動作を繰り返している。


 景義と師岡、多々良……三人の鳴弦めいげん役は、それぞれ縁側に侍り、弓の弦を打ち鳴らした。

 弦を鳴らす勇ましい音で悪霊を追い払い、妊婦と赤子を守るのである。

 悪霊を恐れさせるために、名のある勇者が選ばれている。


 空をつんざく物々しい音は、蟇目ひきめ役の梶原景時が放つ、悪霊祓いの鏑矢かぶらやである。

 庭では護摩の火が焚かれ、神官が朗々と祝詞のりとをあげ、御殿の霊的守護は万全であった。


 やがて女たちのあいだから秘めやかな歓声があがり、赤子が無事、泣き声をあげた。

 報せを受けた頼朝の、その喜びは一方ひとかたならぬものがあった。

 初めての男子である。

 御家人たちが引きも切らず御所に詰めかけ、御祝いの品を山のように持ち寄った。

 鎌倉じゅうが大きな喜びにつつまれ、お祭り騒ぎとなった。


 景義も師岡も、鳴弦の大役を果たしえた安堵感に、互いの手を握りあった。

「見事、悪霊を討ち果たしたのう」

「カッカッカ、まだまだ気は抜けんぞ、これからじゃよ」

 鳴弦役の任務はこれで終わりではない。

 これより七日間にわたって、朝夕、弓を鳴らすのである。


 翌朝の鳴弦に、師岡が面白いことを言った。

「出産前とは、弦の音色が違うのう」


 ……なるほど、確かに……魂をこめて引くその厳しさは変わらないが、そこに明るい色の喜びの勢いが加わったようである。

「弓も、喜んでおるようじゃわい」


 景義は、みずからも若返ったような心地になって、いっそう深く、つるを引き絞るのだった。





 その年も暮れかけた、ある日。


「たいへんじゃ、たいへんじゃ」

 悪四郎が血相を変えて、景義の屋敷に飛びこんできた。


「なんじゃなんじゃ、合戦でござるか」

 景義が問うと、悪四郎は汗を飛ばしてうなずいた。

「合戦も、合戦、大戦おおいくさよ。ついに始まったわ。武衛様と御台所様との大戦がな」

「なんですと?」

「御台所様は怒り狂って、於亀おかめの家を打ち壊されたよ」


 頼朝の亀姫への寵愛は、子が生まれてからもまなかった。

 それどころか、いよいよもって足繁く通いはじめたのである。

 遅まきながら事の次第に気づいた於政は激怒し、縁者である牧宗親まきむねちかに、小壺の屋敷を破壊させた。

 亀姫は命からがら逃げ出したという。


 報せを受けた頼朝は、左手の薬指の先を、しずかに噛んだ。

 ――本気で怒った時の、これはかれの癖であった。


 すぐに牧宗親が呼び出された。

 頼朝は牧を、さんざんに罵倒した。

 あげく、烏帽子を打ちはたき、もとどりを掴まえてバッサリと切り落としてしまった。

 ……髻を切られることは、一個の男子としての、最高の恥辱である……

 牧は、悔し涙をながしながら逃亡した。


 事件はこれだけでは収まらなかった。

 牧は、北条時政の若妻の兄である。

 今度は時政が、北条の面目を潰されたといってわめきだした。

 時政は怒り心頭、断りもなく、一党を率いて伊豆に帰ってしまったという。


「北条殿も愚かなことを……」

 景義は呟いた。

 伊豆へ帰ったからといって、北条になんの利益があろうか。

 そんなことをすれば、謀反むほんさえ疑われかねない。

 鎌倉府が巨大になり、有力な豪族たちが続々と結集するなかで、北条氏の存在価値は急速に薄れつつある。

 その鬱憤が、爆発したものと思われた。


「あれも意外と『お人よし』じゃな」

 悪四郎が、時政のことを評して言った。

 ……折々の他人の感情に流されやすい、と言いたいのである。


「そうでなければ……」

 と景義は言いかけて、言葉を止めた。

(……そうでなければ、流人るにんの殿のしゅうとになど、ならぬであろう)

 心の声が伝わったらしく、悪四郎も苦笑いを浮かべた。


 景義は、言った。

「……とはいえ、わしは北条殿のそういう性格は、嫌いではありませぬよ」

「ふむ、わしらも他人ひとのことは言えぬ」

 ふたりはおかしくなって笑いあった。

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