第65話 景義、小天狗と話すこと

 布で一方を区切った狭い部屋に、景義は、動かぬままの重たい脚を投げ出し、だらりと体を転がしていた。


 耳を澄ませども戦場ははるかに遠く、ただ気の早い蝉たちが、朝日が昇るのを待ち切れず、ぢりり、ぢりりと喉を試しはじめている。


 景義には弟の気持ちがよくわかった。

 本来ならばあの戦場で、景親は兄を踏み越えて為朝と戦うべきであった。

 それが坂東武者の習いである。

 ところがそれをせずに、兄を助けて戦場を後にした。

 理を遠ざけ、情をとった。

 坂東の人々は景親を軟弱者と罵るかもしれない。


 その風評を覆すには、もう一度戦陣に舞い戻り、勇気を示す必要がある。

 一度退いた戦場にもう一度駆け込むのは、最も勇気のいることで、それを坂東武者たちはみな知っている。


(情に厚い男よ……自分の名誉、手柄をそっちのけで、俺を助けてくれたのか……)

 静かな感動が、景義の胸に広がった。

(天才肌の、冷たい男だと思っていた……思い込んでいた。や、から、俺は三郎という男を、まったく取り違えていた。……自分が情けない……)


 左脚は激しく痛んだ。

 だがそれは、どうということもなかった。

 そんな痛み以上に、突然に表出した弟との新しい絆が、かれの心を爽やかな色に染め変えてくれていた。

 戦いの異常な興奮の後で、心が感じやすくなっていたせいかもしれない。

 景義は片方の手のひらで、涙のあふれてくる両目を覆った。



 突如、耳たぶに、幼げな息吹が吹きかけられた。

「泣いておるのか?」


 驚いて手のひらをのけると……いつの間に入ってきたのか、童水干わらわすいかんを着た一匹の小天狗てんぐが、真赤に染まった怪異な形相を、薄明はくめいの光のなかに浮びあがらせていた。


「怪我が痛むのか?」

 小天狗は、めんの奥にちいさな美しい瞳を煌めかせ、もう一度尋ねた。


「いいえ、痛くて泣いておるのではありませぬ。私は先ほど、戦場に出て、弟に命を助けられました。それが嬉しく、感極まって、このように泣いておるのです」

「そうか……」


「天狗殿は何をしておいでか」

 景義が尋ねると、小天狗は生意気げにうなずいた。

「天狗は、この屋敷の枕があわぬ。戦のことも耳に入れておれば、天下のことを憂い、寝苦しく思うてあちらこちら彷徨っておったら、和殿らが騒々しく入ってきたので、忍んで様子を見にきたのじゃ」


「それはたいへんご無礼を……」

「よい、気にするな」

 小天狗は、面をはずした。

 大人びた言葉づかいに似合わぬ、とおほどの童であった。


 遠く、廊下の板を踏みしだく音がして、人々の話し声が近づいてきた。

鬼武者丸おにむしゃまる殿を見かけたか」

「いや、見ぬぞよ」

「いずこへ歩き出られたか……」

「まったく……」

 雑色たちが、この童を探しているのだ。


 童の息が弾んで、もう一度、景義の耳たぶをくすぐった。

「誰にも言わぬ。思う存分、泣かれよ」

 身をひるがえすや、童は壁代かべしろの布をはぐって小部屋を出ていった。


「鬼武者殿。こちらにおいででしたか。どこにいらっしゃるかと、お探しいたしましたぞ」

「左様か」

「おや、この布は……?」

 普段はかけられていない壁代かべしろを、不審に思ったらしい。

 布をはぐって覗こうとする雑色の前に、鬼武者丸はッと立ち塞がり、叱りつけた。


「こちらには、戦場から戻りし大庭殿が休んでいる。かれが起きてくるまでは、誰も近づいてはならぬ。他の者どもにもしかと申しておけ」

「ハ……左様でござりましたか」

 鬼武者丸と雑色たちの足音は、絡み合い、遠ざかっていった。


 ……景義はもう一度、汚れた掌で顔を覆った。


 朝日が、昇ろうとしている。

 また新しい一日が、生まれ出ようとしている。

 山科の深い緑のなかに、蝉たちの声が、いつしかうしおのように高まっていた。

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