第51話 景義、星月夜の下を帰ること

――時は、今にめぐる。


 紫陽花の花々は夕闇の底に沈み、ちろりちろり、庭には青い蛍火が飛び交いはじめている。

 遣水やりみずのせせらぐ音が、胸に心地よい。


「星月夜の御方……お心の広い、大きなお方であった……」

 景義はまぶたを閉ざし、回想に耽りながら、しみじみと呟いた。

 そして目元にやさしい笑み皺を浮かべ、甘縄姫と景兼の姉弟に語りかけるのだった。


「わしはそなたたちに、星月夜の御方のようになりなさい、と言いたいわけではない。ただ、どんな状況に置かれようとも、星月夜の御方も、御霊さまも、お前たちを護っていてくださる。そのことを忘れずに、の」

「はい。わたしもその星月夜の歌――あらためて好きになりました」

「そうか。それは話した甲斐があった」


 甘縄姫はあらためて御守の小箱を、大切に胸に抱きしめた。

夕星ゆうづつが、ほのかに胸に灯ったような心地がします。『月がないからこそ、輝くものがある』……くじけそうになった時は、星月夜の御方と、その歌を思い出します」

「うむ、それがよいよ。……わしはな、どのようなお気持ちで御霊様が、その御守を、娘である星月夜の御方に渡したのか……それを考えた時、わし自身もまた、その御守を、娘のそなたに渡さずにはいられなかったのじゃよ」


 景義はすこしのあいだ、太いうつばりを仰ぎ見て後、娘を勇気づけるように言った。

「この屋敷も、わしは婿殿にではなく、そなたに譲り渡したのじゃ。だからこの屋敷はそなたのものなのだ。大きく、広々とした気持ちでいてよいのじゃよ」

「はい、父上」

 元気を取り戻したか、姫は急に、父親の腕に抱きついた。

「これこれ」

 姫は父の困り顔を見あげ、おてんばの童に戻ったような笑顔を見せるのだった。


 やがて景義は、景兼に助けられながら、座を立った。


 ――屋敷の門を出ると、折もよく、「しゅうと殿」と、この家の主人が、御所の勤めから帰ってきた。

「これはこれは、もそっと、ゆっくりしてゆかれては」

「なに、今日はもう遅い。また改めて参りますぞ」

「いつでもおこしくだされ。お待ちしております」

 と言って、主人は、見えざる土器かわらけを唇の前で傾けた。


 にやり微笑んで、景義も同じ手まねをした。

「では近いうちに、藤九郎殿。娘を頼みましたぞ」

「お任せくだされ」

 しゅうと婿むこ……気がおけない戦友同士……景義と藤九郎は気さくに別れを交わすのだった。


 頭上には鎌倉の星月夜が、まばゆいばかりに広がっている。





※ 甘縄 …… 第二部末の、ノート『鎌倉時代の、甘縄』に、詳述。

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