第50話 星月夜の歌のこと
安堵にも似た静かなため息をついて後、御前は言った。
「もうずいぶん昔、季正がまだ生まれる前の話だったかしら……」
御前は、四十年ほども昔のことを語りはじめた。
「今宵のように、星のまばゆい、秋の夜のことでした。わたしは、都からお下りになられる、さる高貴の女性をお世話いたしました。その御方は『肥後』様と呼ばれるお方で、国守の妻として、
どういうわけか、夫の国守殿は、御公用で先に常陸の国へゆかれたとのこと。奥方さまひとり、下々のものたちと稲村路を通って、甘縄に入られたのです。波飛沫も降りかかる危うい海岸の道、うっそうとした狭い山道、もう日も暮れていて、さぞかし心細かったことでしょう。
屋敷に入られた奥方さまは、私たちのもてなしを、とても喜んでくださいました。そしてかたじけないことに、歌を一首、贈ってくださりました。それが星月夜の歌でした」
われひとり 鎌倉山を 越えゆけば 星月夜こそ 嬉しかりけれ
「一期一会の出会いです。わたしのほうも、お仕えできた喜びはひとしおでした。とても優雅で、利発な奥方さまでした。おのれの才能を頼みに、宮中で活躍したり、全国を又にかけて旅したり、この世にはそのような女性もおられるのだと、その時、感動をもって知ったのです」
一献、二献と、三人は銀色の星のしずくを、酌み交わした。
酒がまわるほど、星が巡るほど、御前の舌も心も、より饒舌になってゆく。
「……西行殿、歌というのは、素晴らしいものですね。隠された心を開き、見えるようにするのですもの。私はこの星月夜の歌がとても好きです。『月がないからこそ、輝くものがある』。
孤独を感じたり、嫌なことがあったり、なにかあったとき、経文のごとくにこの歌を唱えると、素敵なあのお方との嬉しかった出会いを思い出したりして、心も自然と落ち着きます」
西行は確信をもって、うなずいた。
「そうした歌に出会いたいと思って、私もこの旅をはじめました。そしてすでに、たくさんの出会いがありました。嬉しいこともありました。辛いこともありました。しかし今、あなた方に出会えたかけがえのないこの瞬間は、なんと素晴らしい時であることか」
景義も満ち足りた心地で、ふたりの先達のすばらしい言葉の調べを、心すなおに聞いていた。
(本当に、なんと楽しい夜だろう……)
「平太殿は、歌は?」
「わ、私は、ムリです」
慌てて首をふる景義に、西行は言った。
「最初から無理だと言ってはいけない。手ほどきして進ぜよう」
「本当ですか?」
「もちろん」
そうして尽きせぬ思いを語りあいながら、三人はいつまでも星の海を汲みかわしつづけるのだった。
――数日の滞在の後、西行は奥州めざし、気力
※ 我ひとり かまくら山を 越え行けば 星月夜こそ うれしかりけれ
永久百首(永久4年・1116)に選ばれた、「肥後」の歌。
肥後は、宮廷の女房。藤原定成の娘。藤原実宗の妻。
夫・実宗の常陸国赴任は、1111年のこと。
その後は、「常陸」という名に。
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