第45話 星月夜の御方、文を受けとること




   三



 星月夜の御方は、御年、六十にも近い。


 しかし、みずから逍遥しょうようを好むためか、足腰はしっかりとしている。

 いつものように甘縄宮と御霊社の清掃を終え、戻ってきたばかりであった。


 景義の訪れを知らされ、御前はいささか、怪訝けげんそうな顔をした。

 豊田の長男坊が、いったいなんの用事があるというのだろう?


 屋敷の老女房から来訪の事由を伝え聞くや、ほっと胸をなでおろし、すぐにふたりを広廂ひろひさしに迎え入れた。


「まあ、はるばるこのようなひなの地まで、よくぞおいでくださりました……」

 吹き抜けの広廂には、午後の光が明るく差し込んでいた。


 声をかけられ、景義と西行は丁寧に一礼した。

 御簾みす一枚を隔てて、御前のうちきの青紫の、しっとりとした奥ゆかしい色が、ぼんやりと滲んでいる。

 御前の、落ち着きのある仕草や雰囲気が、御簾越しにも伝わってくる。


荷葉かようの薫りですな。よい香りです」

 西行は、空薫そらだきの香りを嗅ぎわけた。

「ほう、さすがは都のお方……風流なこと。このような田舎では、そのように香をかぎわける者など、皆無ですよ」

 御前はひとしきり笑ってから、本題に入った。


「あの子……西住法師は元気にしておられますか?」

「ええ。つつがなく過ごしておられます。これを……」

 御簾の下に文を差し入れると、老母はこれを早速にひらいた。


 手跡のひと文字ひと文字に、息子の息遣いを感じようとてか、丹念に丹念に目を通してゆく。

 愛息の姿が、すぐ間近に思い浮かぶのだろう。

 やがて懐紙を取り、あふれる涙をぬぐった。


「このように手紙を届けてくださるとは、本当に嬉しく存じます」

 老母の心は、西住法師の幼き日々を回想していた。


「わたくしは近領の海老名えびな家の殿をこの家に迎え、あの子、季正すえまさを生みました。ちいさい頃から体が丈夫で、とても賢い子でした。

 御霊ごりょうさま――つまり、わたくしの父、鎌倉権五郎景正でございますが、父はあの子をとてもかわいがってくれました。武芸のことも、あの子は御霊さまから、手ずから教わったのでした」


 景義は瞳を輝かせた。

「羨ましいかぎりです。私にとって、御霊さまこそ、武者の鏡ですから」

 ほほ、と御前は口元に手を当てた。

「平太殿、あなたも赤子の頃、御霊さまのたもとに抱かれたのですよ」

「ええ? それは知りませんでした」

「あなたの父上は教えてくれませんでしたか」

「いえ、なにも……」

 赤面して、景義は頭をかいた。


 御前はふたたび、子息である西住法師の話をつづけた。

「……あの子はそうして御霊さまに弓矢のことを仕込まれ、元服の頃には勇猛そのもの、けれど人の心のわかる、やさしい子でした。

 御霊さまは、みずからの一字を与え、『季正すえまさ』と名乗らせました。

 若いあの子は、この鎌倉で、あふれんばかりの力をもてあましておりましたから、やがて海老名家の縁故を頼り、京に上りました。

 すぐに兵衛尉ひょうえのじょうに任官したと報せが来ました。あの子の抜きん出た才能が都でも認められたのでしょう。そればかりか、院の北面をお守りする武者にまで抜擢されたのですから、私は涙が出るほど、嬉しく思ったものです」


 その時の感動を今でも思い出すのであろう、御前はまた、まぶたの端をぬぐった。

「今は出家をされて、功徳くどくを積まれておられるとのこと。これもまた父方の縁故で、醍醐寺を頼られたとか。あの世におられますご先祖さま方も、ことのほか、お喜びのことでしょう」


 老御前はすこしのあいだ口をつぐみ、小鳥たちのさえずり遊ぶ、前栽せんざいの庭を見つめていた。

「けれど私は、すこし寂しくも思っているのですよ」

 と、御前は言った。

「『西住法師』と号しておられるそうですが、『西に住む』などといって、あの子はもう、二度とここへはかえってこないつもりなのでしょうか……」


「それは……」

 なんと答えたものかと、西行は言葉を失った。

 西行自身、家族をふり捨てて、断固たる決意をもって出家した。

 西住にも、そのような同じ決意があるだろうことは容易に想像できた。


「『西』とは、阿弥陀仏の浄土……西方浄土のことでございます」

 と、西行は言った。「この世のことはわかりません。けれども互いに浄土をめざせば、いつの日か、必ず、合眼かないましょう」


 老母は、寂しさを微笑に紛らわせた。

「よいのですよ、西行殿。単なる、老人の愚痴でございます。私はあの子が仏の道を選んだことを、誇りに思っております。……そう、伝えてください」

「は……必ずや……」

 西行も、庭に目を向けた。

 しばし、友のことを、胸に思うようであった。

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