第44話 西行、ふところ島へ招かれること

 ――以前はなにもなかった荒地に、今ではちょっとした人々のにぎわいが生まれていた。


 西行が招かれてやってきたのは、ふところ島のたてであった。


 まわりを板塀と土堀に囲まれた、広い方形の区画が「館」である。

 正面の平橋を渡り、大きなやぐらもんをくぐる。

 すると中央に茅葺かやぶきの屋敷が、ずっしりと聳え、奥には別棟も見える。


 屋敷を囲む樹々は、日除けにもなり風除けにもなる。

 季節ごと、花樹は心を楽しませ、果樹は美味なる恵みをもたらしてくれる。

 屋敷の裏にある鬱蒼とした緑の、背の低い竹叢たけむらは、矢竹である。


 館の内には、さまざまな人々が働いている。

 畑で農作業をしている者たちがいる。

 工房では矢作やはぎ、金工、木工などの職人たちが、それぞれの仕事に打ち込んでいる。

 糸殿いとどの染殿そめどのでは、女たちが衣服をこしらえている。


 竈屋かまどやからは、腹の減るよい匂いがたちのぼり、食事時ごとに、盛大なかしぎの煙があがる。

 大きなうまやがある。

 倉がある。

 北西の隅にひっそりと、鎮守のほこらが祀られている。


 ……館とはそれ自体が、ひとつの町のようなものであった。





 屋敷のうちで、西行は旅装を解いた。

 ようやく落ち着くことができた景義と西行は、南の居間にくつろいで対座した。


 佐波理さはりの鉢に満たされた乳でもてなされると、「これはありがたい」と、西行はまず両手で拝み、それから飲み干した。

 景義も同じように、ぐいぐいと飲み干して、口元を拭った。


「西行殿は、これからどちらを目指して行かれるのですか」

「奥州を目指しているのだよ」

「奥州……それは遠い場所へ。いったいどういうわけで……」

「なに。私は縛られるものもない出家の身。有名な歌枕の地を訪ねながら、知見を深めているのだ」

「修行の旅……ですか?」

「ははは、そのように堅苦しく考えるものではない」

「ぜひ、今宵は俺……私どもの屋敷にお泊りください」

「それは頼もしいお言葉。まことにかたじけない」


「これからどちらを回って、奥州へ?」

 相模からの道のりは、幾筋もある。

「まずは鎌倉を訪ねようと思っている」

「鎌倉?」

「うむ。……見越みこしの崎……鎌倉山……それから、稲瀬川……、いにしえの歌にまれた場所を、この目で見てみたい」

「それでしたら……」

 と、景義は目を輝かせた。

「ぜひ私に案内させてください。お邪魔でなければ」


「こちらこそ、和殿の邪魔にならないようであれば、ぜひお願いしたい。それから、歌枕とは別に……鎌倉にはひとつ大事な用事があるのだ……」

 言いながら、西行はかたわらのおいを引き寄せた。

「この笈には、命の次に大事なものが、入っていてね」

「なんです? 財宝でも?」

 真顔で言った景義の言葉がおもしろかったか、西行はクククと笑って、たちまち答えを明かした。


「手紙だよ。人々が想いをこめてつづった、大切な手紙を預かってきている。これらの手紙を、旅の先々で届けてゆくのだ。みな本当に、喜んでくれる。見ているこちらが幸せになるくらいに、ね……」

 そう言って西行は、実に幸せそうな笑みを浮かべるのだった。


「私の尊敬する友人に、西住さいじゅうという僧侶がいてね。この人の母上に手紙を届けたいのだ」

「西住法師……」

俗名ぞくみょうを、鎌倉季正すえまさと」

「ああ、わかりました」

 と、景義の顔が、ぱっと輝いた。


「その方の母御前は『星月夜ほしづくよ御方おかた』といって、鎌倉の甘縄に住んでおられます。その……稲瀬川の近くです。同族のよしみで、私も幾度かお会いしたことがあります」

「それは心強い」


「しかし……」

 と、急に難しい顔になり、景義は腕組みした。「われら大庭と鎌倉の人々は、つい先ごろ大きないさかいがありまして、仲が悪くなっております。鎌倉の人々は、われらを快く思っておりません。私が訪れては先方の機嫌を損ねるかもしれません」

「ほう……」

「屋敷の近くまでご案内して、すぐに私はおいとまいたしましょう」

「……」


 急に西行が大きな笑顔を作ったので、景義は驚いた。

 精気あふれるこの僧は、力強く言葉を切り出した。


「余計な口出しかもしれぬが、この機会を利用してみてはどうだね」

「……と、申しますと……」

「和殿も私と一緒に、その家の門をくぐってみてはいかがかな。いさかいなど、つまらぬもの。人生は短いよ。和解できるなら、より早く和解したほうが果報も大きい。この機会を、仏の与えたもうた、和解の機会ととらえてみてはどうかね。私もできうるかぎり協力するが……」


 景義はぼんやりと、西行の顔を見た。

 どうしようか、迷いがあった。

 西行の透きとおった瞳にだんだんと吸い込まれるような気がして、ふと景義は心づいた。

(また俺は……躊躇している)


 景義はうなずいた。

「ご一緒いたします」

 西行は快いばかりに、にこりと笑った。


 横からすかさず、助秋が口を出した

「殿、手土産を持っていかれては」

「お前はほんと、気がきくよ。甘い菓子、旬の土産とさん反物たんもの、酒もよいな、用意しておいてくれ」

「はい」


 今日のところは疲れ切った体を休め、翌日、鎌倉を訪れることとなった。

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