第43話 景義、強き僧侶に出逢うこと




   二



 今は昔、久安年間――


「ボウヤッッ」

 あられもない悲鳴が、風を切り裂いた。

「誰か」「ボウヤ」「助けてッ」

 次々と、同じ女の金切り声が、脳天に飛び込んでくる。


 頑丈な二本の脚で、川岸のぬかるみを歩いていた景義は、めざとく子供が流されてくるのを見つけた。

 浮き橋を渡っていたところを、誤って足を踏み外したものらしい。

 前日の雨に、川は増水しており、流れも速い――

 一瞬、躊躇した景義の目の前で、白い影が宙に躍った。


ざぐぅんっ

 飛び込んだのは、景義の前を歩いていた僧侶であった。

 いつのまにやら袈裟けさなどの衣服を脱ぎ捨てている。

「ちぃッ」

 景義もあわてて衣服をぎ、遅れじと飛び込んだ。


 抜き手を切って全力で泳いだが、ところがこれがどうしたわけか、先を泳ぐ僧侶にちっとも追いつかない。

 流れのまんまんなかで、童を抱き止める僧侶の太腕が見えた。

「御坊っ」

 叫びつつ、脇から支えた。

 ふたりの男の必死のまなこが真正面からかち合った。

 思ったより流れが強く、速かった。

 岩のように堅い濁流が腕をとらえ、体を羽交い絞めにし、動きも思うようにままならない。

 裸の男たちは一塊になりながら、ずんずんと下流に押し流されていった。


「殿ッ」

 岸のほうへ目をやれば、助秋であった。

 かれはぎりぎりと大矢を引き絞り、川中に向け、ぱっと放った。

 矢の尻に、細縄が結わえてある。

 届ききらぬほどに、水に落ちた。


 今にも濁流に呑まれんとする一矢をめざし、「それッ」と、ふたりは渾身の力で水を蹴った。

 だが、ぎりぎりのところで腕が届かない。


 ――助秋が二本目を射ようとしている。


「もっと下じゃッ、下流へ放てッ」

 聞こえたか聞こえぬかのうちに、助秋は二本目を放った。


 僧侶は眼力の強い、鋭いまなこでその行方を見定めた。

念彼観音力ねんぴかんのんりき波浪不能没はろうふのうもつ――」

 ず太い声で、僧侶が叫ぶのを、景義は聞いた。


 男たちが必死の力を合わせると、三つの体は奇跡のように、ぐいぐいと矢にむかって近づいていった。

 僧侶の指が、ついに矢羽を捕まえた。

 景義も縄を握りしめた。

 岸では郎党たちが待ち構えていて、力いっぱい縄を引き、三人の体を救いあげた。


 童は気を失ってはいたものの、どうにか命をとりとめることができた。

「坊や、坊や」

 涙ながらにとりすがる母親を、郎党たちは引き剥がし、すぐに子供の衣服をぬがせ、濡れた体を拭い、何重にも布にくるんで温めた。


 野次馬たちも集まってきて、あるものは火をき、あるものは飲み水を差し出し、あるものは乾いた布を差し出して、見知らぬ者どうしがたちまち一致団結した。


 やがて、魂を取り戻した子供は、わんわんと母親に泣きすがった。

「よかった、よかった」

 と、心やさしい人々の、安堵のため息が合わさった。


 景義と僧侶……男ふたりは、逞しい裸体をむき出しに、草むらに仰向けになり、へばりきっていた。

 限界を超えた疲労困憊こんばいに、どちらもしばらくのあいだ、言葉を発することもできなかった。


 母親が近づいて、涙ながらに感謝の言葉を伝えると、ようやくのこと、僧侶は上体を起した。

「いやいや、礼には及ばぬ。しかしまあ、一瞬でも遅れれば、命とりになるところであったな」

 僧侶はそう言うと、おもむろに手を合わせ、観音かんのん菩薩ぼさつに感謝の念仏を唱えるのだった。


 なにげない僧侶の言葉が、景義の心に強く引っかかった。

(『一瞬でも遅れれば……』――その一瞬を、俺は躊躇した。そして、御坊に先をこされたのだ……)

 景義は内心ひそかに、自分を恥じた。


 僧侶は三十過ぎであろうか。

 鼻太く、眼光鋭く、頬はやせている。

 腰の据わった、きびきびとした動き。

 がっちりとした骨太の肉体のうちに、自分でも抑えきれぬ炎を燃えたぎらせているように見えた。


「む、いけない。私の荷物……」

 経を唱え終え、僧侶は慌てて立ちあがった。

「お荷物はこちらに」

 助秋が言って、抜かりなく畳んだ着物と荷物を運んできた。

 荷物は、四角い木箱のおいである。


 僧侶は礼を言いながら、いかにも大切げに、それを両手で受け取った。

「や、これはありがたい。『弓取ゆみとりは、よき郎党を持つべかりけり』とは、よく言ったもの。よき郎党をお持ちの殿だ」


 そう言って破顔した僧侶に、景義は嬉しそうに笑み返し、自己紹介した。

「ふところ島の、平太景義と申します。よろしければ御名をお聞かせ願いたい」


 僧侶は、うなずいた。


西行さいぎょうと号す」

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