第39話 若宮大路、完成すること




   三



 景義の住居は、いつか義景とともに元服式を行った、由比ゆいの総領屋敷である。


 この屋敷は、鶴岡八幡宮や大倉御所にはやや遠かったが、材木の運搬などの海運を取り仕切るのに便利であった。

 のみならず東海道の陸運やなめり川の舟運もにらめる、絶好の場所である。


 大好きな海が近く、開放的で、庶民の暮らしぶりにも触れることができ、景義の気分によく合っていた。


 景義と悪四郎は、たびたび屋敷の前に床机を据え、人足たちの作業の様子を面白く見守った。

 海から舟で運ばれてきた材木は、滑川の河口を遡り、由比屋敷の近くまで送られてくる。

 そして川の西岸に引きあげられ、資材運搬道に乗って目的地まで運ばれる。


 反対側の東岸には、米をはじめとしたさまざまな生活物資が引き上げられる。

 東岸の船津のむこうは、米町こめまち大町おおまちといった、鎌倉の繁華街である。

 さまざまな商売屋が所せましと並んでいて、家侍いえざむらいも人足たちも一日の仕事が終われば早速、繁華街へと繰り出した。


 そうした労働者を目当てに、商人たちもいっそう集まる。

 また、鎌倉に来れば仕事がもらえると聞きつけて、その日暮らしの者たちが大勢たむろしている。

 雑踏の活気と臭気はすさまじく、一本裏道に入れば、客引きの遊女の数も並大抵ではない。

 どこへ行っても、猥雑な活況にあふれかえっていた。





 新都建設がやや落ち着きを見せてくると、今度の於政の出産を機に、いよいよ資材運搬道を廃し、若宮大路わかみやおおじへと生まれ変わらせるための作事が開始された。


 運搬道は急ごしらえに開削されたものであるため、ところどころに曲折がある。

 周囲の山々との関係から距離と方角を正確に計算し、これを完全な直線に直すのである。

 曲折を直して気の通りをよくするというところに、安産の願いが込められている。


 作事の最終日には頼朝みずからが指揮をとり、御家人たちも自分たちの手で、祈りをこめて土石を運んだ。

 ついに最後のひとつの石がはめ込まれると、大路小路を埋め尽くす群衆のあいだから盛大な喝采の声があがった。


 若宮大路――延々、十数町にわたって海まで真っ直ぐにつき抜ける、それは心地よいばかりの壮観であった。

 道幅も十一丈と、格段に広い。

 これは、防火の目的も兼ね備えている。

 町の一部で火の手があがっても、火は若宮大路を乗り越えることができず、延焼を食い止めることができる。

 道の両脇には、深い堀が走っている。


 一風変わっているのは、大路の中央に一段高く、石組みの特別な参道が通されていることである。

 この置き石の参道は、人の通り道ではない。

 八幡神の通り道である。


 大路の両脇には、御家人屋敷が建ち並んでいるのだが、門や横道は存在せず、ずっと高い塀が連なっている。

 ……つまり、御家人屋敷はみな、若宮大路に背を向けている。

 大路をお通りになられる八幡神を、人々が直視せぬためである。


 これこそが頼朝の大きな演出で、置石の道そのものが、そこを渡られる八幡神を、常に可視化しているのである。

 それは、この鎌倉という都市が、八幡神の権威によって支えられているということを意味していた。

 それより他に、京の権威に対抗する術は、ありえなかった。



 景義の総領屋敷のあたりは、ちょうどこの若宮大路と東西道が交錯する場所で、この場所は『下馬げば四角よつかど』と名づけられた。

 大路を通る際、横切る際には、八幡神を敬い、必ず馬を下りることが義務づけられたのである。





※ 若宮大路 …… 鎌倉に、現存。幅、十一丈は、三十三メートル。


※ 置石の道 …… 現在は「段葛だんかずら」と呼ばれ、人も通れます。


 両側に桜が植えられ、花の季節には、とても美しいです。


※ 景義の鎌倉屋敷 …… 第二部末の、ノート『景義の、鎌倉屋敷はどこに?』に、詳述。




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