第38話 景義、鳴弦を奏でること

 豊田館とよたのたてに景義が現われたのは、それからまもなくのことである。


 本当のところかれは、父親の顔など見たくもなかった。

 激しい葛藤かっとうの末の訪問おとないであった。


「兄者、体はもういいのか?」

 次郎は目を丸くして出迎え、兄のふらつく肩を支えた。

「うむ、だいぶよくなった。それより、父上は?」

「寝こんだまま、魂も無い様子じゃ」

「そうか……」


 景義は父の枕元に屈みこむや、唖然とした。

(ちいさくなられた……)

 昔、恰幅もよく、人々を顎の先で従えていた父が、今や骨と皮だけの抜け殻と成り果てていた。

 呼吸は苦しげで、かすれた笛のような音を立てている。


 蒼ざめたやまいの陰と、悪臭とに包まれた、半死半生の肉塊――。

 景義は、これまでたくさんの人の生き死にを見てきたが、このようなおののきは、いまだかつて感じたことのないものだった。


(……わしは、あなたにさんざん苦しめられてきた。だがそれがなんだと言うのじゃろう。あなたのこの姿を見たとき、あなたに対して怒り、泣いた、かつての日々が、とてもちっぽけなことに思えてくる。死を前にしたとき、人とは、いかに小さきものであることか)


 景義は日が暮れるまで、少年のような気持ちで、ずっと父の枕番をしていた。

 胸中を、数々の思い出がよぎり去った。

 殴られた日のやりきれない気持ちも、また……。


 雑仕女が来て、高灯台に火を点した瞬間、病みやつれた父の顔が、いっそう深い陰影にくまどられた。

 おののきが、身のうちに走った。


(……わしが今のわしであるためには、あなたの行動のすべてが必要だったのじゃろう。あなたがわしを苦しめたこともまた、必要なことだったのやもしれぬ。今、自分が一族の総領になってみて、ようやくわかる。

 この凄まじき嵐の吹き荒れる世のなかに屈せぬ、一匹の強靭な男を作り出そうとして、あなたはわしを厳しく鍛えたのであろう……)


 染み入る夜気に、灯台の火が静かに揺れている。

(母上が死んだ時、あなたのせいだと思った。だが、果たしてそうであったろうか? 思えばあの頃のわしは、母上の死を、誰かのせいにしたかったんじゃろうな。今になって、それがわかる)


(初陣の後、あなたはわしにふところ島の領有を認めてくれた。今から思えば、それが確かにあなたの真心だったのじゃろう。わしはあなたに十の真心を求めた。そのせいで、あなたがくれた一の真心を見逃していたのかもしれない……)

 景義は尻をひいて床に手をつくと、深々と頭をさげた。

(愚かなわしを、許してくだされ……)

 その顔は涙で歪んで、くしゃくしゃになっていた。


 庭に出ると、広々と雲のたなびく中空に、心澄ますように、清らかな月が輝いていた。

 景義は、ふぅと息をついた。

 片肌を脱ぐや、弓をとり、月にむかってからの絃を鳴らしつづけた。

 『鳴弦めいげん』といって、病人から悪霊を追い払うのである。


 景義の弦のは力強く、風となり、波となり、広々とした稲田の水面をふるわせた。

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