第36話 景義、病に倒れること




   二



 あれほど頑健であった景義が、病に倒れた。


 御所の造営もひと段落し、鶴岡八幡宮の大作事も完成を見た。

 ようやくそれらの重責から解放されて、張りつめていた緊張が一息にほどけたのであろう。

 思えば、旗揚げの山木合戦以来、心身ともに限界への挑戦の、連続であった。


 仲のよい御家人たちが次々と見舞いに来てくれた。

 驚いたのは、頼朝の突然のおとずれであった。

「忍びである」

 珍しくも簡素な直垂ひたたれに身をやつした頼朝は、景義の樹肌のようにごつごつした手を握りしめ、動きはじめたばかりの鎌倉府にとって景義がいかに重要な存在か、早く病を克服して公務に復帰してほしい……そう切々と訴えかけた。

 弱りきった景義の目には、感激の涙があふれ出た。


 隣家の悪四郎も、たびたび見舞いに来てくれた。

 頼朝の訪問に感動したことを景義が言うと、悪四郎は、にやりと笑った。

「そこもと、そのこと、口外せぬほうがよいぞ」

「なぜです?」

御台所みだいどころ様のご懐妊は存じておろう」

 『御台所』とは、於政おまんのことである。


 景義がうなずくと、悪四郎は声を潜めた。

「武衛様はこの所、なにかにかこつけて、しきりと外出なさる」

 ――景義は察しがいい。

「女ですかな」

 尋ねると、悪四郎はうなずいた。


 鎌倉の南の海岸沿い、小壺こつぼの地に、頼朝はめかけをかこっているのだという。

 伊豆の頃からの馴染みで、名を亀姫というらしい。

「御台所様は、殿が他の女に情を通わされるのを、なによりも嫌うておられる。事が露見すれば、大事おおごとじゃて」

「なるほど」

 景義は咳込みながら、苦笑した。


 ……先だって於政の発案で、鶴岡八幡宮の社前に左右対称の、ふたつの池を掘った。

 その時、於政は、作事奉行の景義を呼んで、こう言った。

「東の池には白の蓮を、西の池には紅の蓮を植えましょう」

「妙案にござります。夏には華やかになりますな」

 於政は、ふくみ笑いした。

「わたしだけの、秘密の意味があるのよ。大庭殿にだけ、こっそり教えましょう」

 そう言って於政は、師の法音尼から聞いたという、古い言い伝えを話した。


 伊豆山の地下には紅白二柱ふたはしらの龍が棲んでいる。二龍は夫婦であり、夫婦和合することによって二龍の精気が湯と煮えたぎり、地表へ、海へと、ほとばしり出るのだ。

 それが伊豆山いずさん……湯が「いずる山」の由来である、と。


「――紅白の二龍にあやかって、この池を紅白としましょう。この池は私の願い。いつまでも夫婦いもせふたり、あい和して、ついにはあの藤九郎殿の夢を果たせますように、と。八幡大神は、母子の神とも聞きました。きっとお聞き届けくださるに違いありません」

 於政は自分の腹のまるみを、慈しむようにかい撫でて、うっとりと微笑んだ。


 ……景義はその時のことを思い出し、ため息をついた。

 かれには於政の気持ちも、頼朝の気持ちもわかる。

(二龍、激突せねばよいがのう)

 白けた顔をいっそう青ざめさせた景義に、病しらずの悪四郎翁は、元気な声を弾ませた。

「ふところ島よ、はよう元気になれ。貴様がおらぬと面白うないわ。こいつを喰って滋養をつけよ」

 悪四郎は、みずから担いで持って来た、猪肉の尻を叩いた。

 孫たちと一緒に狩って来たのだという。

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