第34話 緑御前、景義を罵倒すること

 河村義秀は、葛羅丸としての生活に、次第に慣れていった。

 かれは、一旦、葛羅丸となると決めたからには、たとえ一人きりの時でさえも、言葉を発することを自分に禁じた。

 この厳しさは、元来の性格である。


 周囲の人々は、景義の背後につきそう覆面の大男の姿を、昔から見慣れていた。

 ……誰も、疑うものはなかった。





 その日、大庭郷内の、とある古家を、景義は訪れた。

 ほとほと――戸を叩くと、朽ちかけた遣り戸を無理にずらし、年老いた雑仕女ぞうしめが現れた。


 昼間にもかかわらず、屋敷の蔀戸しとみどはすべて閉ざされている。

 かび臭い、どんよりとした空気が重い塊となって、内のほうから這い寄せてくる。

 取り次がれて、若い娘が応対に出た。


 景義の一番下の妹、気和飛けわい姫である。

 この妹姫はまだ十代、長兄の景義とは親子ほどに年が離れている。

 ひょっとしたら、祖父と孫にさえ、見えるかもしれない。

 昔は化粧の大好きな娘であったが、今ではそれもほとんどしていない。

 喪服に準じた、色のない衣を着ている。

 蒼ざめた顔で、開口一番、

義姉あね上は、お会いになられまぬ」

 と言った。


 末妹を安心させようと、景義は、やわらかく微笑んだ。

みどり御前ごぜんは、お元気か?」

「はい」

「そなたも?」

「はい………」

「なにか要り用のものは」

「いえ、とくに……」

 気和飛姫は、しおらしく……というよりは、ほとんど生気を失った様子でうなずいた。


 彼女の夫は、佐々木兄弟の五男、佐々木五郎義清である。

 佐々木五郎はいまだ囚人として、兄の三郎盛綱の鎌倉屋敷に、幽囚の日々を送っている。


「そなたの夫、五郎殿の恩赦のために、みな陰ながら動いてくれている。希望を忘れずに、の」

「はい……」

 景義の励ましにも、姫は難しい表情をして、うつむいてしまった。

「信じることじゃ、信じつづけねばならぬよ……」

 葛羅丸と雑色たちが荷車から、食材や日用品の入った長櫃を運び入れると、老下女がふたたび難渋して戸を閉ざした。


 ――『緑御前』とは、景親かげちかの正妻である。

 年の頃は、三十代。

 都から迎えた奥方で、景親の他に身寄りがない。

 相模国内に多少あった親戚知音も、「景親断罪」と聞いて後は、ぷっつりと音信を絶ってしまった。


 景義は戦後、景親の縁者で身寄りのないものをすべて引き取り、保護した。

 緑には領内に屋敷を与え、不自由のない暮らしをさせるつもりであった。

 ところが緑は、その申し出を頑なに断り、今にも傾きそうなこの古屋に閉じこもった。


「なにか不自由があれば、わしにお申しつけなされ。できうる限りのことはさせてもらうでのう」

 景義がそう言った時、誰よりも色濃い黒衣を身にまとった緑は、美しくつやめいた黒髪をふり乱し、ほとんど狂ったような様子で、悪態をついたのである。


「実の弟を裏切りなさったあなた様の世話は、受けとうもござりませぬ。その汚れた手、萎えた脚、腰の折れた醜い姿。わが背の君と、わが子陽春丸を殺したあなた様は、にっくき仇。ふたりを殺したように、私も殺しなさるがよい」

 怒りに狂った目で、緑は景義をまっこうから睨みつけた。

「あなた様は鬼じゃッ。血を分けた弟を、呪われた鬼じゃッ。わがを返せッ、わが子を返せェッ」

 なおもさんざんに怨みごとを叫びつらね、緑はついに床に泣き伏した。

 娘たちもくず折れて、母の裾にとりすがった。

 ……景義には、かけるべき言葉も見つからなかった。


 景義は女たちが生活に困らぬよう日用品を手配し、月に一度はみずから足を運び、心づくしの品を届けた。

 だが緑はけして、景義に姿を見せない。

 気和飛姫が廊に出て、それらの品を受け取るのであった。


 ……噂に聞く話では、景義からの贈りものは、手つかずのまま捨てられているという。

 それを乞食が狙って、奪い去ってゆくという話であった。




【作中・略系図】


景宗 ┬ 景義

   |

   ├ 景親

   | ∥ ┬ 陽春丸

   | ∥ └ 娘たち

   | 緑御前

   |

   └ 気和飛姫

     ∥

     佐々木五郎義清

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