第34話 緑御前、景義を罵倒すること
河村義秀は、葛羅丸としての生活に、次第に慣れていった。
かれは、一旦、葛羅丸となると決めたからには、たとえ一人きりの時でさえも、言葉を発することを自分に禁じた。
この厳しさは、元来の性格である。
周囲の人々は、景義の背後につきそう覆面の大男の姿を、昔から見慣れていた。
……誰も、疑うものはなかった。
◆
その日、大庭郷内の、とある古家を、景義は訪れた。
ほとほと――戸を叩くと、朽ちかけた遣り戸を無理にずらし、年老いた
昼間にもかかわらず、屋敷の
取り次がれて、若い娘が応対に出た。
景義の一番下の妹、
この妹姫はまだ十代、長兄の景義とは親子ほどに年が離れている。
ひょっとしたら、祖父と孫にさえ、見えるかもしれない。
昔は化粧の大好きな娘であったが、今ではそれもほとんどしていない。
喪服に準じた、色のない衣を着ている。
蒼ざめた顔で、開口一番、
「
と言った。
末妹を安心させようと、景義は、やわらかく微笑んだ。
「
「はい」
「そなたも?」
「はい………」
「なにか要り用のものは」
「いえ、とくに……」
気和飛姫は、しおらしく……というよりは、ほとんど生気を失った様子でうなずいた。
彼女の夫は、佐々木兄弟の五男、佐々木五郎義清である。
佐々木五郎はいまだ囚人として、兄の三郎盛綱の鎌倉屋敷に、幽囚の日々を送っている。
「そなたの夫、五郎殿の恩赦のために、みな陰ながら動いてくれている。希望を忘れずに、の」
「はい……」
景義の励ましにも、姫は難しい表情をして、うつむいてしまった。
「信じることじゃ、信じつづけねばならぬよ……」
葛羅丸と雑色たちが荷車から、食材や日用品の入った長櫃を運び入れると、老下女がふたたび難渋して戸を閉ざした。
――『緑御前』とは、
年の頃は、三十代。
都から迎えた奥方で、景親の他に身寄りがない。
相模国内に多少あった親戚知音も、「景親断罪」と聞いて後は、ぷっつりと音信を絶ってしまった。
景義は戦後、景親の縁者で身寄りのないものをすべて引き取り、保護した。
緑には領内に屋敷を与え、不自由のない暮らしをさせるつもりであった。
ところが緑は、その申し出を頑なに断り、今にも傾きそうなこの古屋に閉じこもった。
「なにか不自由があれば、わしにお申しつけなされ。できうる限りのことはさせてもらうでのう」
景義がそう言った時、誰よりも色濃い黒衣を身にまとった緑は、美しくつやめいた黒髪をふり乱し、ほとんど狂ったような様子で、悪態をついたのである。
「実の弟を裏切りなさったあなた様の世話は絶対に、受けとうもござりませぬ。その汚れた手、萎えた脚、腰の折れた醜い姿。わが背の君と、わが子陽春丸を殺したあなた様は、
怒りに狂った目で、緑は景義をまっこうから睨みつけた。
「あなた様は鬼じゃッ。血を分けた弟をその手にかけた、呪われた鬼じゃッ。わが
なおもさんざんに怨みごとを叫びつらね、緑はついに床に泣き伏した。
娘たちもくず折れて、母の裾にとりすがった。
……景義には、かけるべき言葉も見つからなかった。
景義は女たちが生活に困らぬよう日用品を手配し、月に一度はみずから足を運び、心づくしの品を届けた。
だが緑はけして、景義に姿を見せない。
気和飛姫が廊に出て、それらの品を受け取るのであった。
……噂に聞く話では、景義からの贈りものは、手つかずのまま捨てられているという。
それを乞食が狙って、奪い去ってゆくという話であった。
【作中・略系図】
景宗 ┬ 景義
|
├ 景親
| ∥ ┬ 陽春丸
| ∥ └ 娘たち
| 緑御前
|
└ 気和飛姫
∥
佐々木五郎義清
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