第26話 景義、狂憤すること

「平太――あなたはなんという愚かなことを。怒りを鎮めなさい。あなたは怒りに目が眩んでいる。目をお覚ましなさい」


 毘沙璃は三郎の脇に座りこみ、かばうようにその背を抱いた。

 それを見るなり、景義は背筋が氷のように冷たくなるのを感じた。


 毘沙璃は、言った。

「三郎殿はまだこんな年若でありながら、一族の期待と重荷を一身に受けて、悩みが多いのです。私は、私ができることならば、この人を助けてあげようと思っています。あなたも兄ならば、弟を助けておあげなさい」


 景義は顔面を蒼白にして、責め立てるような調子で言った。

「……そうか、毘沙璃、あなたまでもが、オレより三郎のほうを選んだというわけだ」

「そういうことではありませんッ」

「そういうことじゃッッ」

 景義は叩きつけるように叫んで、もはやそれ以上は怒りのために言葉にならなかった。

 冷然と背をむけ、足元の草花を荒々しく踏みつけながら、景義は立ち去っていった。



「誤解されてしまいましたね……」

 かたむいた烏帽子もそのままに、三郎が心配げに呟くと、毘沙璃はもの憂げに、長い睫毛を伏せた。


 他人から男女の仲と疑われぬよう、人目につかぬところで舞の稽古をしていたのが、裏目に出て、逆に、あらぬ疑いをかけられてしまった。


 景親は、言った。

「私は、あなたとの仲を、誤解されてもいい。でも、あなたは、不犯の誓いがありますから、疑われれば、困るでしょう?」


「いいえ……」

 と、毘沙璃は、首を横にふった。「不犯の誓いは、神との誓いです。他人が疑っても、自分が守っていれば、なんの差し障りもありません。けれど……やはり、ふたりきりで会うのは、もうやめましょう」


 毘沙璃としては、童のような気持ちで、舞を楽しんでいただけだった。

 そのような無邪気さが、傍目には許されぬ年頃になっていることを、この時、身をもって理解したのである。


 景親は、「残念です」と、呟きつつ、駄々っ子の若君の戯れのように、毘沙璃の手をとろうとした。


「三郎殿」と、毘沙璃は、ぴしゃりとたしなめて、若者の手を遠くに押しやった。





 景義はふところ島にむかって、狂ったように馬を奔走させた。

 馬は、主人の豹変に驚いたことであろう。

 行きは仏を背に乗せ、帰りは鬼を乗せたのである。


 屋敷に飛び帰るや、もどかしく烏帽子を投げ捨て、戸をきつく閉ざし、頭を抱えこんで横になった。

(オレの知らぬ間に、ふたりはあのように親密に楽しんでいたのか)

 嫉妬の火炎が、黒々とはらわたを焼いた。

(……毘沙璃は……三郎の馬に共乗とものりして帰ったのであろうか)

 不快な想像であった。

 こみあげてきた怒りにこぶしを固め、景義は思い切り床を殴りつけた。


(毘沙璃は、オレの持っていった花籠を見たろうか)

 かれが持っていったちいさな花籠は、あの藤の花室の風雅な光景とは比ぶべくもなく田舎じみていて、今となってはそれが、とてもちっぽけな物に思われてきた。

 ふところ島の女たちが気をきかせてくれた真心の品だけに、いっそうにやるせなかった。


 悲しみの涙がぼろぼろと流れ落ち、いきどおりの炎を次第に冷ましていった。

 やがて心に静けさが戻ってくると、一時の激情に任せて愚かなふるまいをした自分に、猛烈な自己嫌悪が頭をもたげ、純朴なかれを苦しめた。


(自分が情けない。もはや二度と、毘沙璃には会うまい。いや、会えまい)

 青年は闇のなかでひとりきり、いつまでも悶え苦しんでいた。

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