第22話 景義、少女に名を授けること
景義は初陣の功により、大庭御厨の西端、相模川にほど近い
敵兵に踏み荒らされた農地の修復が、まずは課題であった。
離散した農民たちも呼び戻さねばならない。
殿原郷の南に、長年、開発の滞っている土地があった。
湿地や沼地ばかりで、そのままでは農耕に適さない。
景義は馬を駆り、郎党らとともに視察して回った。
(どうしたらこの荒地を、豊かな農地に変えることができるんだろう? 農地の開墾ということを、一から学びたいものじゃ……)
ひとりの農夫が、やせ畑に鍬をふるっていた。
その娘だろうか、かわいらしい三つ四つばかりの
農夫の父親は、さっと青ざめて、見知らぬ男たちに不安のまなざしを向けた。
景義は自然な動きで童を助け起し、胸に抱きかかえた。
その雰囲気にあたたかさを感じてか、父親は余計な言葉を言わずに、黙って様子を見守りつづけた。
「この娘、名は?」
「名などありません」
「名がないか……」
「へぇ。――お偉い方、どうかお恵みくだされ」
「ああ……」
うなずいた景義は、助秋を呼び、米の入った袋を渡させた。
きょとんとした農夫は、「いえ」と首をふった。
「名を、恵んでやってくだせぇ」
「名を?」
突然の申し出に、景義は、……こんなこともあるのだと興味深い顔をして、童の顔をじっと見つめた。
頬から汚れた土をはらい落としてやると、女童は輝くようににっこりと笑った。
両手には野の草花を宝物のように、そっと大事に握りしめている。
景義は決めた。
「宝草……宝草がよい」
「……たからくさ……ありがとうごぜぇます」
「遊んでおいで」
景義が宝草を地面におろすと、幼児は無心に、手のなかの草花をさし出した。
幼いながらに、自分が名前をもらったことを理解して、そのお礼のつもりなのである。
賢い子だ、と、景義は思った。
腰をかがめて受け取ると、幼児はにっこり笑って、父親のほうに駆けていった。
「この土地を、わぬしたちは何と呼んでいる?」
「へ、へい……幾本もの川に囲まれたこの土地を、わしらは『ふところ島』と……」
「ふところ島か……」
景義のなかで、ぴんと閃くものがあった。
(『殿原』などという名前は、すこしく偉ぶっている感がある。それに比べ、『ふところ島』というのは、ころころとして、親しみやすい、なかなか愉快な響きじゃ)
景義はあたりを見回した。
「うむ、気に入った。この場所に
「こんな何もない場所に……本気ですか?」
すけ丸――今は元服して
国府に近い豊田から見れば、田舎も田舎、いや、田舎というよりも、荒野といったほうがよい。
「何もないからこそ、楽しみではないか。なんでも思い通りにやれるのだぞ。なんじゃ、嫌なのか? お前だけ豊田に帰るか?」
「
「シッ」
と、景義が気色ばんで人差指を口に当てたので、助秋は不平を言うのをやめ、驚いて黙りこんだ。
「耳を澄ましてみろ。目を閉じろ。あの音が聞こえぬか」
また戦でもはじまるのかと、助秋は両肩をこわばらせ、
野に吹き荒ぶ風の音のほかは、なにも聞こえてこない。
「なにも……聞こえぬようですが……」
「黙れ、助秋。俺の耳には、たくさんの笑い声が聞こえてくる。楽しげな笑い声が、な。うむ、収穫を祝っておるのじゃろう。
おお、見よ。東の空に、美しい月が昇っておる。
われらのような武者だけではない。農夫も漁夫も、浮浪の者らも遊びめ女も、大人も子供も老人も、みんな集まって来おったぞ。楽しい
おお、
助秋が目を開けると、景義は器用に鼻をひくひくさせ、いかにも
するとその演技につられて、助秋の腹がぐぐぅっと鳴った。
――すかさず景義は叫んだ。
「ハハァ、お前さんにも見えたか? 聞こえたか?」
景義は嬉しそうに身をかがめ、助秋の腹にむかって呼びかけながら、一個の生き物をかわいがる手ぶりで、郎党の腹を撫でさすった。
「たくさんの者たちがここに集まってくるぞ。収穫の実りも上々、にぎやかな場所になる。
お前さんも嬉しい悲鳴をあげるくらい楽しみか? そうかそうか。さあさあ、かわいいお前さんに褒美をやろう。助秋、お前の腹は、お前の頭より、はるかにかしこいぞッ。お前の『
……なおも助秋の腹を叩いて大笑いしながら、景義は野営の準備をはじめるのだった。
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