第12話 平太丸、少女と出逢うこと




   五



 なにかにとりかれたように、平太は武術に、体術に、馬術に、学問に、必死に励んだ。

 特に馬術は、抜きんでて得意だった。

 馬のそばにいると心が安らいだ。

 一日の大半を大好きな馬と過ごし、会話を交わした。

 雨の日も、雪の日も、馬の世話を欠かすことはなかった。


 平太が多くのことを人並み以上にこなせるようになってからも、何が悪いのか、父に気にいられることはなかった。

「お前には、欲がない。それが気に入らぬ」

 父はそのようなことを言ったが、平太はどうすればよいのか、戸惑うばかりであった。


 ある日、大庭の館でのこと。

 国府での仕事がうまくいかなかったのか、父はとてつもなく機嫌が悪かった。

 平太はそれに敏感に勘づいていたが、あえて構わず、にこにこ笑っていた。

 すると父は突如として激昂し、「へらへらするなッ」と、平太の体がすっ飛ぶほどに右の拳で殴り飛ばした。

 いつものことではあったが、この日は殴られ方が特にひどかった。


 平太は涙ながらに愛馬に飛び乗り、鞭をくれて館を走り去った。 

 怒りにわれを忘れ、ゆくあてもなく、田んぼの畦道に馬を飛ばした。

 いくつもの鳴子が秋風にゆられ、からからと乾いた音を立てている。

 どこをどう走ったものか、いつのまにやら鵠沼くげぬまの神明宮のあたりまで来ていた。


 かれは馬からおりると、川べりの草原くさはらに転がりこんだ。

 父親にたれた頬は青く腫れあがり、にぶく痛んでいる。

 かれは川を見つめ、黙ったまま、黒土の上にぽろぽろと涙を流した。

 澄みわたった秋の空が、川の水を真っ青に染めていた。

 すべてを忘れて、自分も真っ青に染まりたかった……もし水になることができるのなら、川のままに流れてゆこう。

 もし鳥になれるのなら、風のままに流れてゆこう。

 たおやかな水の上を、飛来した白鳥くぐいの群れがひそやかに滑ってゆく。

 平太は、とりとめもない夢想にふけった。


 しなやかな白さが、突然、頬に冷たく触れて、かれは驚いて飛びあがった。

 白鳥が首をすり寄せたのか……

 あわてて起きあがると、真っ青な空のふちどりのなかに、かれは夢幻の光景を見た。


 ひとりの少女が、膝をついて座っていた。

 白い小袖こそではかま

 肩の先にゆるりと羽織った、空色のうちき

 その浮世離れした雰囲気で、すぐに神明宮の巫女と知れた。

 白鳥だと思ったのは、めくれあがった袖から伸びる、すきとおるような少女のかいなだった。


 平太が驚きにすくみあがったままでいると、少女はあどけなく笑った。

「まあ、とんだ若駒わかごま

 と、少女が言った。

 ……若駒と聞いて、平太は思わず自分の馬をふり返った。

 馬は、おとなしく草をんでいる。

「若駒?」

 少女は、また笑った。

「あなたのことよ」


 少女は立ちあがり、川べりにおりてゆくと、手ぬぐいを水にひたし、きつく絞った。

 戻ってくるや、手ぶりで平太を地面に横たわらせた。

 平太の体はまるで傀儡子くぐつ人形のように、ぎこちなく、言いなりになった。

 頬に冷たい布が押しあてられると、少女の衣服に焚きしめられたこうの匂いがしびれるように香って、平太の正気を奪っていった。

 ……少年は少女に、年上の異性を感じた。


「気持ちいい?」と、少女が尋ねた。

 いつもの饒舌はどこへやら、平太は言葉が喉に詰まって、ものも言えない。

「今日ね、夢のお告げがあったの」

 まるで顔見知りに話すように、少女は平太に語った。

 暁の夢に、若駒が現れたと言うのである。


 鹿毛かげの毛並みもつややかなその馬は、この川原のこの場所に体を休めていた。

 たちこめる霧のなか、やがて馬は立ちあがり、びっこを引くようなそぶりをみせた。

 右の後ろ脚に、怪我をしているようだった。

 するとどこからともなく、慈愛に満ちたやさしげな声が聞こえてきたのである。

(……行って……助けておあげ)

 少女はそこで……ねむりから醒めた。


「その声はわたしを育ててくれた、ばばさまの声にも似てた――婆さまは、もうこの世にはいないのだけれど――。

 それでいつものお勤めのあと、思いだしてここに来てみたら、あなたがいて、左の頬を青くふくらませているでしょう?

 私、『夢解き』が得意なの。夢のなかでは、右と左が逆になるのよ。馬が右脚を怪我していたということは、左脚か、そうでなければ、体の左側に怪我があるってこと……だから、夢に出てきた若駒はこの子のことだって、すぐにわかったの」

 不思議な夢の話を聞いて、平太はどう答えていいか分からなかった。


 ふたりのあいだを沈黙が流れ過ぎた。

 沈黙はしかし、たくさんの音をはらんでいた。

 それはふくよかに転がる水音であった。

 白鳥たちの甲高い戯れ声であった。

 羽ばたきの、するどい擦音であった。

 真っ白な羽根がひとひら、目の前の水面みなもをかろやかにすべってゆく。

 少女はちいさく左隣に腰かけて、平太の頬にずっと布を当てていてくれた。


 耳たぶのすぐそばに体温を感じて、平太の体はどうしようもなく火照ってきた。

「……平太」

「え?」

「名前、平太っていうんだ」

 喋った途端、顔全体に痛みが走った。


 喋らなくてもよい――そう言うように、少女はつめたい両手で、平太の顔をやさしく包みこんだ。

「わたしは毘沙璃びさり鵠沼くげぬまの巫女」





※ 鵠沼の神明宮 …… 神奈川県藤沢市鵠沼神明にある、皇大神宮。現存。

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