第11話 平太丸、取り戻せぬもの

 母が亡くなった日のことを、平太は大人になってからもけして忘れない。


 その朝、具合が悪いからと、母は寝込んでいた。

 出がけに挨拶にきた平太に、御簾みすごしに、母は、か細い声で言った。

「牛の乳を飲んでおゆき」

 平太はめんどくさく思った。

「急ぐから……」と、乳の鉢に手をつけず、そのままに屋敷を飛び出した。

 

 帰ってくると、屋敷の様子がおかしい。

 助夏から突然に、その恐るべき事実を告げられて、平太は愕然とした。


 佐波理の金鉢は、朝出た時のまま、そのままになっていた。

 御簾のむこうに、母の体が不気味なほど静かに横たわっている。

 平太は我しらず、ふるえた。


 咄嗟に鉢を取り、今にも渇き死にしそうな者のように、ごぶごぶと一息に乳を飲み干した。

 じっと耳をすまし、母のやさしい声を待った。

「よい子じゃ」


 ……だがいつまで待っても、その声は聞こえなかった。

 聞こえるはずもなかった。

 えぐられるような痛みを感じ、平太は胸を強くおさえこんだ。


 なぜ……どうして朝に、この乳を飲まなかったのだろう。

 今飲んだところで何になるというのだ。

 今ではなく、なぜ朝に……朝に飲まなかったのか……この鉢は、朝に飲まれねばならなかったのに……


 もはや時を取り戻すことはできなかった。

 臨終の時に、御簾のむこうから、飲まれることのなかったこの鉢を見て、母はどんなに悲しんだだろう。

 取り返しようのない思いで平太は鉢にかじりつき、床の上をのたうちまわった。

をこをこをこッ――)

 平太は猛り狂いながら御簾を引きちぎり、もの言わぬ母の手に、許しを乞いながら、額を押し当てた。




 野辺のべ送りの日、父は涙ひとつ流さなかった。

 父には他にも妻がいて、特に、三郎丸の母を愛している……平太の母をうとんじている……平太の幼い目にはそう映った。

 母が死んだのは、父がしいたげたせいだ……激しい絶望と憎しみとを抱いて、平太は思った。


 あれよあれよという間に、喪が明け、なにごともなかったような日常が戻ってきた。

「殿、つる丸たちが遊びにいこうって、門のとこまで来てます」

 すけ丸が告げに来た時、平太はわざと知らんぷりして、弓の稽古をつづけた。


 平太の弓の姿勢を正しながら、助夏が不審げに尋ねた。

「ゆきませぬのか」

「いかない」

 平太は素っ気なく答えた。

「すけ丸」

「はい」

「牛の乳をもてッ」

「はいッ」

 瓶子へいしに満たされた牛の乳を、平太は、がぶがぶと飲みほした。

(強くなりたいッ、強くなりたいのじゃッ)

 平太は目に涙を浮かべながら、弓弦を引きつづけるのだった。

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