第10話 平太丸、笑まい顔のこと

 空は、青々と澄んでいた。


 北には雨降あふり山と丹沢の山並が、西の地平には雄大なる富士山が雲をまとい、蒼い稜線を広げている。

 父の景宗は狩装束で、豪傑ばりの黒髭を風にふるわせ、三人の子供たちが揃うのを今や遅しと待ち構えていた。


 号令一下、いつもながらの厳しい鍛錬が始まった。

 童たちは馬を飛ばし、弓を引いた。

 なかでももっとも器用に馬を乗りこなし、弓矢を操っている紅顔の美少年は、三郎丸である。

 父の秘蔵っ子で、父が上総家の姫を迎えて為した子だ。


 三郎丸は生まれた時から、天才児だった。

 言葉を教えればすぐに飲みこんで自分のものにした。

 竹の小弓をとらせると、たちまちに要領を得て、きゃっきゃっと笑いながら、人々に矢の雨をふらせた。

 馬にも怖じず、幼い体でしがみつき、数ヶ月のうちには手綱をとって自分の馬を制するほどであった。

「平太丸より、覚えが早いわ」

 父は事あるごとに、そう口にした。これが平太には苦痛だった。


 今もまた、父は三郎丸にはめっぽう甘い。

「いいぞ、三郎丸」と手放しで褒め称えるが、反対に、長男の平太には次々と激しい怒声が飛んだ。

「姿勢が悪い」

「なんじゃ、そのへろへろ矢はッ」

「そのようなこともできぬのか? 鍛錬が足りぬぞ」

 平太はちいさな体で馬の背にしがみつき、歯を食いしばって必死に耐えた。


 武者の子には、名乗りの稽古も欠かせない。

 父は童たちを郷境に立たせ、隣領にむかって大声を張らせた。

 父は一町も離れた後ろにいて、仁王立ちに腕を組んでいる。

 まだ声変わり前の、幼い声色が、弾けるようにして大空に挑んだ。

「奥州の合戦に……」

「聞こえんぞッ」

「奥州の合戦にィッ」

 平太は真赤になって叫んだ。「出羽国金沢の城を攻めたまいし時、十六歳にして戦の真先に駆け、鳥の海の三郎に右のまなこを射つけられながら、答の矢を射返してその敵を討ち取りし、鎌倉権五郎景正が末葉ばちよう、平太丸」

「尻の穴に力をこめよッ、もう一回」

「奥州の合戦にィッ出羽国金沢のォッ……」

 父の怒声が、平太の尻を鞭打つ。

 稽古は日が沈むまでつづき、鳥の海の三郎は、何度も何度も権五郎に討ち取られるのだった。



 ……声もかすれ、くたくたになって帰ってきた平太の顔を見て、母が言った。

「怒った顔をしていますね」

「……また父上に怒られました」

「そう……」

 母は、ふっとため息をついた。

 平太が武者に向いているとは、正直、思ってはいない。


「平太丸、おいで」と、母は息子を胸に抱き寄せて言った。

「人は怒り顔に出会うと、自分も怒った顔になります。うれえ顔に出会うと、憂え顔になります。まい顔の人に出会うと、自然と笑顔になります。あなたはどんな顔の人に出会いたい?」

 そう尋ねて、母は平太の瞳を、やさしげにのぞきこんだ。


「笑まい顔の人……」

「そう、そうね。ならばあなた自身が笑顔でいればよいのよ。つまらない顔をした人がいたら、あなたの笑顔を見せてあげなさい。怒り顔の人、憂え顔の人にも、あなたの笑顔を見せてあげなさい。笑顔を見ると、人はつられて、笑顔になります。たとえ笑顔にならずとも、笑顔が心に忍びこみます。ほんのすこしずつ、すこしずつ、あなたのまわりに笑顔が増えてゆきます」


 そうして母が浮かべてくれた『笑まい顔』に、平太も同じ『笑まい顔』をとり戻した。

 母はすこし冷えた細い指先で、丁寧に、平太の髪を稚児輪にってくれた。


 結いながら、こほこほ、――かろしわぶきをした。

「母上、咳が……」

「いいえ、なんでもありません……」

 母は平太の体をぎゅっと、包みこむように抱きしめた。


「平太丸、あなたの体はあたたかい」

 そう言われた途端、平太は自分の体の中心に、あたたかな炎が赤々と燃えているのを感じた。

 母は自分を必要としてくれている。

 ――失った力が甦り、強さと誇らしさ、安心感が胸いっぱいに広がった。


 こほこほ……母がまた、咳をした。

 母の体が急に、羽根のように軽くなった気がして、平太はまたしても、心細くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る