第8話 平太丸、十郎に教わること

 それから十郎は子供たちのために、釣竿と餌を用意してやり、みなで釣りをはじめた。


 竿を垂れながら、平太はふと自分の腕の匂いを嗅いでみた。

「十郎兄、俺、臭いかな?」

 十郎は「あぁん?」と言って、平太の頭に鼻を近づけた。

「いんや、別に。どした?」

「俺のことを、臭い、臭い、っていうやつらがいるんだ」

「……」


 なにか考えるように黙っていた十郎は、突然「おい」と言って、生魚を握ったばかりの手を、平太の鼻に押しつけた。

 平太は目を白黒させた。

「どうだ、臭いか?」

「く、臭い……」

 十郎は今度は平太の頭を抱え込んで、自分の汗だくの脇に押しつけた。

「どうだ?」

「く、くさい……」

「ぶわははは、汗臭いだろ」


 十郎は平太の顔を引き離し、幼い目を見つめながら言った。

「いいか、平太。大人の男ってのは、クセェもんだ。……あとな、頑張ってるやつほど、クセェもんなんだ。色んなやつの匂いを嗅いでみろ。いろんな匂いがして面白いぜ。お前なんぞ、まだまだ匂いのひとつもしねぇよ。お前もはやく、ひとクセもふたクセもある、臭い男になれ。わかったか?」

「うん、わかった……」

 十郎の引きしまった顔つきを見て、平太は、えへへ、と、照れ笑いした。


 その日の釣りは大漁だった。

 十郎は素晴らしい釣りの師匠でもあった。

 ……もう帰ろうか、という頃になって、釣れたもののなかで一番大きな魚を、十郎は海に放した。

 壺のなかに水を張って、生かしておいたのである。


「なぜ放すの?」

 平太が不思議そうに尋ねると、十郎は言った。

「海の神さまに、感謝のお礼をするのさ。魚は人のもんじゃねぇ。海のもんだ。海から命を譲ってもらうんだ。そこを勘違いしちゃ、なんねぇ」

 大魚は生命を取り戻し、鱗を七色に煌かせながら、真っ青な波のさなかに消えていった。





 その夜、平太が母のそばで飯を食っていると、親父殿……父の景宗かげむねが、どかどかと庭からあがりこんできた。

「おいッ」と、ただならぬ気配である。

 たちまち平太は、首根っこを掴まれた。


「お前、今日、講義に出なかったらしいな」

 平太はふるえた。

「は、はい……」

 かぼそい声で答えると、たちまち、ぶん殴られた。

 母の悲鳴があがった。

「自分の務めを果たさぬ者は、この豊田にはいらぬ。出て行け」

 バリバリと肝をふるわすような、恐ろしい怒鳴り声である。


「どうか、お許しを」と、あいだに入ろうとした助夏まで、たちまち殴り飛ばされた。

 なおも制裁を加えようとする景宗のはかますねに、今度は飛び込んできたすけ丸が、死ぬ気でしがみついた。

 しかし、ちいさな体は簡単に蹴り飛ばされ、柱のむこうにころころと転がっていった。

「すけ丸ッ」

 叫んだ平太の小袖の襟首を、父は掴みあげた。


「ハッ、ぬしは守り甲斐のないあるじよのぅ」

 平太には、言い返す言葉もなかった。

「よいか、次は許さぬ。わかったか?」

「は、はい……申し訳ありませぬ……」

 がたがたと身をふるわせながら、平太は今にも消え入りそうなかぼそい声で言った。

 鬼のような恐ろしい睨み顔を平太の心に焼きつけて、父は床板を踏み鳴らしながら自分の屋敷に戻っていった。


 ――後には嵐が去った後の、静けさだけ残った。


 助夏が倒れこんでいる。

 平太は駆け寄って、涙ながらにあやまった。

「すまぬ、俺のために……」

 平太が言うと、助夏は、ニッカと笑った。

 土気つちけ色した、純朴そのものの顔だった。

 石臼いしうすを引きずるような、つぶれた声で、かれは言った。


「平太さま、謝らないでくださいませ。平太さまに代わって殴られるのが、わしらの仕事ですじゃ」

「そんな……」

「それがわしら郎党の喜びなのです」

「……」

 殴られることが喜びだなんて……平太は悲しく憤慨した。


「大殿様はあんなことを申しましたが、わしら親子は平太さまのようなおやさしい御曹司に仕えることができて、幸せを感じておるのです。すけ丸を、よくやったと褒めてやってくだせぇ。どうか、どうか……」

 平太は感情が胸につまって、ものも言えなかった。


 涙をふいて、すけ丸を助け起こしに行くと、母のうちきのやわらかな袖が、まるで母鳥の翼のように、ふわりと、ふたりを包みこみ、抱きしめてくれた。

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