その屋敷の奥には

各務あやめ

第1話

 これは今から随分前に私が体験した、奇妙な話だ。

 私はそのとき、ひとりで街を歩いていた。

 少し前、母と喧嘩して、家を飛び出してきたところだった。言い争いの種は自分の進路のことで―。美大に行きたい私と、それを頑なに反対する母は互いに自分が正しいと一歩も引かずに、言葉で殴り合った。

 もういい、お母さんには相談しない、ひとりで決める、と言い放って家を出たものの、私にはすでに選択肢など残っていなかった。学費だって親が出すのだから、母が許さなければ私は美大には行けない。

 私には絵しかないのに、と心の底から他人に認めてもらえない歯がゆさを呪う。

 絵しか取り柄がない私が、絵を描くことで自分を保ってきた私から絵を取ったら何も残らない。生きがいも、何もない。     

 絵を描かない人生。それを想像しただけで、吐き気がした。

 そんなとき、ふと視界に見慣れない看板が目に飛び込んできた。

 『死仁魔ス禍?』

 その看板には、そう書かれていた。

 死仁魔ス禍? ……死にますか?

 顔を上げると、そこには大きな屋敷が建っていた。今にも崩れそうなぼろぼろに剥がれた壁に、ツル状に伸びた何かの植物が広く覆っている。どことなく暗く、幽々たる雰囲気が、漂っていた。

 入ってはいけない、と直感的に、なぜだか思った。

 しかしその途端、扉がキイ、と音を立てて、屋敷から小さな女の子が出てきた。

 白いワンピースを着た、髪を三つ編みのおさげにしているどこにでもいるような女の子だったが、目はどこか虚ろだった。

 小さな唇が動いた。

「死仁魔ス禍?」

「……え?」

 女の子は私の目のじっと見つめていた。

 何となく気落とされて一歩後ずさりすると、女の子も一歩、私に詰め寄った。

「死仁魔ス世ネ?」

 奇妙な声で、女の子は話しかけた。答える暇もなく、女の子の白い腕がすっと伸びて、私の腕を掴んだ。

「えっ、ちょっ……」

 女の子はそのまま私を屋敷の中へ連れ込もうとする。

 扉を開け、強引に私を中へ引っ張ていった。

「ちょっと、待っ……」

 私は女の子の手を振りほどこうとしたが、強く掴まれた腕は全く動かなかった。こんな小さな体のどこにそんな力が、と思うが、抵抗すらできない。

 私はそのまま、屋敷の奥へ連れられて行った。奥へ進むほど光が差し込まなくなっていき、暗闇に包まれていった。

 随分と歩いた後、女の子はようやく私の腕を離した。

「ここはどこ!? 私をどこへ連れてきたの!!」

「黙ッテクダ差異」

 低い声で遮られ、私は思わず口を閉ざした。

 暗闇のせいで周りの様子どころか、女の子の表情もよく見えなかった。

 イイデス禍、と女の子は言った。

「ココハ、生ト死ノ境目ヲ取リ仕切ル場所デス。死ヲ望ム人ノ為に、ココハ存在シマス。私達ハ、死仁タイ人達ヲ、彼等ガ苦シマナイ方法デ、アノ世ヘ送リ出シマス」

「……は?」

 話の展開についていけない。

 死にたい人達を、あの世へ送り出す? 苦しまずに?

 はっ、と私は思いついた。そうか、と心の中で納得する。

 私は声を張り上げた。

「分かった、ここ、何かの宗教団体なんでしょ? 私、そういうの興味ないから、帰らせてもらう」

 そう言って女の子に背を向けると、突然、シャッ、と空気を切り裂くような音が耳元でした。

 ―え?

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 視線をずらすと、その先には。

 大振りなナイフが、私の首元で刃を光らせていた。

「きっ……」

 きゃあああああ、と叫ぼうとすると、口元を素早く塞がれた。

 女の子の抑揚のない声が、耳元でする。

「逃ゲナイデクダ差異。アチラヲ見テクダ差異」

 女の子が指差した方向を、私は恐る恐る見た。

 その光景を見て、私は息を呑んだ。

 何十人、いや、何百人、数えきれないほどの人が、ずらりとひとつの列を作っている。その列は長く、どこまでもどこまでも続いていた。

「アチラノ人々ハ皆、死ヲ望ム人達デス。コノ列ハ、アノ世ヘ繋ガル道ヘノモノデス」

「……ちょっと待ってよ。私は別に、死にたくない」

 私は再び女の子から離れようとするが、ナイフがまた振り下ろされた。

 恐怖に体を震わせながら、私は呟く。

「……私は死にたくない」

「ソレハ、アリエ得マセン。コノ屋敷ハ、死仁タイト思ッテイル人ノ前ニシカ、現レマセンカラ」

「えっ……」

 ―私が、死にたいと思っている?

 そんなわけ、ない。

 すぐさま否定するが、本当にそうなのか、と考えると不安が襲ってきた。私は、美大に行けなかったら生きがいがなくなるとさえ、思っていたのだから。

 女の子が言う。

「……一度デモ、死仁タイト思ッタコトガ、ナイノデス禍?」

 一度でも、死にたいと思ったことが、ないのですか?

 ―そんな、馬鹿な。

 私は顔を上げ、死への道へと繋がる列を見た。

 老若男女、様々な人がそこにはいた。ひとりひとり外見は違っても、共通しているところがひとつあると、私は気づいた。

 ―目だ。

 皆、どこか遠くを見つめているかのように、目の焦点が合っていない。虚ろで、まるで穴が開いてるんじゃないかと思うくらい、暗い目だった。

 ぞっ、と寒気がした。

 私は叫んだ。

「私は死なない! この列には、並ばない!」

 すると女の子は、驚くべきことを言った。

「……ソレハ、違イマス世」

「何が違うの!?」

「……ダッテ」

 女の子はナイフを私の首元に当てたまま、感情のない声で言った。

「ココハ、列ノ最後尾デハナイ。アナタハ今、列ノ一番前ニイルノデスカラ」

「……え?」

 その途端、背後からドン、と誰かにぶつかられた。

「きゃっ」

「どっけええええええ!!」

 それを金切りに、一気に人が押し寄せてくる。

「死への道を!!!」

「生からの解放を!!!」

 わあっ、と歓声が広がる。人々は皆、暗闇の奥へ―死への道へと、喜々として走っていく。

 ―逃げなきゃ。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ。早くここから逃げなきゃ。

 そう思うけれど、人の波に押されて、中々後ろへ戻れない。

 ぐっ、と押されて、私は前方へ流されるように押し戻された。

「嫌っ、やめて!!」

 必死に四肢を振り動かすが、自由に動けなかった。

 暗闇がどんどん、急速に深くなっていく。

 ―死にたい。

 どこからか、声が聞こえた。

 その声は、だんだん鮮明になっていく。

 死にたい、死にたい、死にたい、死仁タイ、しにたい、シニタイ、死ニタイ、死仁タイ、死にたい、しにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたい……。

 死仁タイ。

「嫌ああああああああああああああああああ!!!!」

 暗黒が、視界を覆っていく。救済など何もない、無の死が、目前まで迫っている。

 嫌だ、嫌だ。

「私は、死にたくない!!」

 そのとき、突如、一筋の光が差し込んだ。

 混沌に渦巻く中、私は必死に光へ手を伸ばす。

 白く眩しい線を、私は掴んだ。

「私は、生きたい!!」

 すると、ふっ、と光が私を飲み込んだ。さらさらと、辺りの闇がそこに溶け込んでいく。

 霞んでいく視界の中で、女の子がひとり立っていた。

 頬を膨らまして、不満そうに言う。

 ―アラ、残念。


 気がつくと、そこにはいつもの街の風景が広がっていた。

 あの屋敷も、『死仁魔ス禍?』の看板も、どこを見渡しても、なかった。

 ―コノ屋敷ハ、死仁タイト思ッテイル人ノ前ニシカ、現レマセンカラ。

 ああ、と思う。

 きっとあの屋敷は、自分の心の奥深いところ―普段は見えない暗い部分が顔を出したときに、現れるのだ。

 ふう、と息をつく。全身が緊張から解けていくのが分かった。

 ―あれから一度も、あの屋敷は見ていない。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その屋敷の奥には 各務あやめ @ao1tsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ