下の巻
「前に話したよな、祖父のその後のことも」
リールからフィルムを外しながら、彼は言った。
確かに、彼の祖父がその後いかに劇的な人生を送ったかは、彼の自慢の種で、私も耳にタコができそうなほど、幾度となく聞かされていた。
件の武勇伝で一躍労働者の英雄と世間からもてはやされた彼の祖父は、その後も当然英雄としての人生にこだわり続けた。
しがない一労働者が、俄に一代で巨万の富を築き、国内でも指折りの富豪にのし上がったのだ。
その富の多くは、効くか効かぬかさだかでない怪しげな栄養剤を売り捌いて築き上げたといわれている。
しかも、商売の元手をどうして手に入れたかは、孫の彼ですら知らぬ謎だった。
だから彼の祖父が、何者かに殺害されるという非業の最期を遂げても、世間はさほど驚かなかった。
輝かしい成功の陰には、必ずそれを凌ぐ深い闇がある。
英雄の人生には、たえず醜聞がつきまとうのだ。
私は肯いた。
「誰かに殺され、犯人はいまだに捕まってないって話だろ」
「正確には、もう捕まえられない」
なるほど、とうに時効が成立している。
「しかし、祖父の最期は謎めいていてね」と、彼は舌なめずりをして続けた。
とっておきの宝物を取り出すような口振りだ。
「実は、別に興味深い事実があるんだ」
「何だって?」
「知ってのとおり、祖父は例の工場を相手どった攻防で一躍名を馳せたわけだけど、どうも事前に裏取引があったらしい」
「まさか?」
私は絶句した。
事実そのものより、彼が自ら自慢の祖父の疑惑を口にしたことが信じられなかったからだ。
実際、その話はまるで彼の作り話としか思えなかった。
もともと、何を考えているかわからないところのある男だが、いよいよ気味が悪くなった。
「影を売り渡したんだ」と、彼は誇らしげに言ったが、私には答えようがなかった。
「どういう意味だ、影を売るとは?」
「文字通りの意味さ。自分の影を売ったんだ」
「影って……」
私は床にのびた自分の影を指して、
「この影か?」
「そうとも」
何を言っているのだろう。
物体に光が当たって影はできる。
影だけ切り売りするなど不可能だ。
私は彼の頭がどうかしたのではないかと思った。
そういえば、修復したフィルムを二度目に上映した時、彼は妙な反応を示した。
何かに怯えているようだった。
私が露骨に訝しんでも意に介さず、ちらと淋しげな笑みを口元に漂わせるのみで、彼は静かに呟いた。
「これを復元されると誰かが困るんだよ」
雨脚が強くなったようだ。
祖父はねえ、と彼は憑かれたようにぼそぼそ言い続けた。
「今日みたいな雨の夜に、路地裏で襲われたんだ。それも、十人近い相手に取り囲まれて、なぶり殺しにされた。大して酒飲みでもない祖父が、その夜に限って泥酔していて、抵抗した形跡もなかったとは絶対おかしい。つまり、その時いっしょにいたのは、祖父を泥酔させても怪しまれない連中。仲間だったというわけさ」
「誰でもわかる理屈だね。それが警察にわからなかったとでも?」
私が口を挟んでも、彼は聞く耳を持たない。
誰にともなく話し続けている。
「なぜそんなことになったのかといえば、そもそも祖父の武勇譚が捏造されたものだからだ。彼は、労組を裏切って、自分の影を工場側の人間に売り渡した。だから、もう彼のそれは存在しない。ところが、どこの誰が撮ったともしれないこのフィルムには、ないはずの影が焼きつけられて、本人が死んだ後もこうして生き続けているんだ。面白いじゃないか」
彼の妄想は光速に近く膨張し、急激に真実から乖離してゆく。
気がつくと、目の前を白い影が走っていた。
道路は夜露に濡れそぼち、月の光にぼんやり照らされている。
気づかれぬようつけてゆくと、サクサクと足元で雪の鳴るような音がした。
頭上から青白い誘蛾灯の光が降りそそいでいる。
思わず、あっと声をあげた。
白い影が踊るように軽やかに飛び跳ねながら、誘蛾灯の真下を通り過ぎると、真っ黒な影が生き物のようにすばやく私の後ろへまわり込んで、ずいっと立ち上がったのだ。
白い影がくるっと振り返り、私はちょうど白い影と黒い影の真ん中に立って、なす術もなく凍りついてしまう。
すると、白い影に真っ赤な口がぱくっと割れ、けたたましい笑い声を残すと、すうっと消えてしまった。
慌ててその地点まで駆け寄ってみると、今度は背後で靴音が響いた。
弾かれたように振り返っても、濡れた路面に自分の影が長く延びているだけだった。
見ると、影は怯えたように小さく震えている。
高い塔の男 令狐冲三 @houshyo
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