Ⅲ
二年生になって私もいよいよ進路をはっきりさせないといけない時期が近づいている。両親は当然私は大学へ進学するものだと思っているらしい。なんなら県外の私立大学に行かせてもいいとさえ考えているようだった。だけど私にはそんな気は毛頭ない。イフリートが私を選んだのは、何よりも私が近くに住んでいたからだ。それは裏返せば、彼には遠く離れた恋人とまめに連絡を取り合ったりするほどの熱はないということでもある。さしたる根拠があるわけではないが、私が大学に行けば彼の心は私から離れていくという確信に近い何かがあった。
夢と言えるほどの熱量を持ったものを私は生まれてこの方一度も抱いた事がない。小さい頃は絵本の中のお姫様やアニメのヒロインなんかに憧れたこともあったが、それはただ単にここではないどこかに行きたかったというだけだ。私にとって日常というのは、常に唾棄すべき退屈さの象徴だった。大学に行けば新たな生活が始まるだろうし、刺激的な出会いもあるかもしれない。だけど果たしてイフリートを超えるような、そんな存在に巡り合うことはできるのだろうか。狡猾でありながら誠実でもあり、子どもっぽい癖に変態的なあの現代の悪魔は、私の中の漠然とした欠乏を完璧に満たしてくれる。
やっぱりイフリートじゃないとだめだ。私は炎に魅せられた羽虫のように、もはや彼から離れることはできない。たとえその炎で自らを焼き尽くすことになったとしても。私は進路調査票に県内の公立大学の名前を書いた。前の模試ではB判定だったし、頑張れば多分受かるだろう。イフリートに『今週はちょっと会えないかも』とメッセージを送って参考書を開いた。
「あー、まじで死にたい」
「またそれ? いい加減立ち直りなよ」
「いや無理。一生引きずるわ」
昼休憩はいつもこうして皆で机を囲んでお弁当を食べるのだが、私の右隣に座っている美優はここ一週間ほどずっとこんな調子だ。なんでも応援していた男性アイドルグループの推しが、ファンの女の子に手を出したとか出してないとかで炎上してしまったらしい。まだ本人や事務所から公な声明は出ておらず、ネット上では様々な憶測が飛び交っているようだ。アイドルとなるとやはり競争相手は多いだろうし、誰かが彼らを蹴落としたいと考えても不思議ではない。私は薄ら笑いを浮かべるイフリートの顔を思い出しながら卵焼きを口に運ぶ。
「いっそアイドルなんか忘れて彼氏作れば?」
「いや、それとこれとは別じゃん。私は推しに生かされてるの、推しからしか摂取できない栄養があるの」
「うわー、ドルオタきっつ」
「もう二次元で良くない?」
「ねえ、詩織もなんか言ってやってよ」
私は彼氏もいないしオタク文化にもさほど詳しくない優等生、ということになっている。そういうキャラを演じ続けるのは正直退屈で仕方ないのだが、女子社会においてはこのポジションが一番面倒ごとが少なくて済む。
「……まあ本気で応援してるなら、その人を信じて待つのが一番じゃない?」
「おお、さすが詩織。良いこと言うじゃん」
ああ、こんな薄っぺらい言葉で満足してしまうんだ、と拍子抜けした気持ちになる。それとも彼女たちにとっては誰かを信じるということは、それくらい尊くて素晴らしいことなんだろうか。皆が私をきっと理解できないように、私も皆のことは多分理解できない。別にそれでいいんだ。どうせ誰も私の冷めた内側には気づけない。それを見抜くことができたのは、人を燃やしてせせら笑っているあの悪魔だけだ。
彼の言葉を借りるなら、美優のような人種は豚と猿のどちらかということになるんだろうか。信じるということはつまり、疑うことをやめ思考停止することでもある。届きもしない存在に恋い焦がれて、ただ与えられるエサを貪って、そんな堕落しきった人生を恥じることもなく謳歌している。多分美優は豚なんだろうな、と私は思った。
少し湿った唐揚げを食べながら考える。私はイフリートの豚にはならない。この魂を捧げて、私は現代の魔女になるんだ。教室のどこかから男子たちの笑い声が聞こえた。
久しぶりに会ったイフリートはいつもと変わらない様子で、私を追求するようなことは言わなかった。彼は束縛するのも束縛されるのも嫌いなのだ。ただ世の中の普通を嘲笑って、自分だけは賢く生きていけると思っている。多分そんな人間でなければ自分から悪魔を名乗ったりはしない。
「ねえ、あのアイドルってイフリートが燃やしたの?」
「ん? ああ、あれは自然発火だ。まあもしかしたら他の誰かが火を放ったのかもしれないけどな」
「イフリート以外にもそういう人たちっているの?」
「どうもそうらしい。でも今のところは競合するようなことにはなってないし、しばらくは様子見だな」
「もし競合したら?」
「その時は潰すか、協力するか、とにかく相手次第だな」
どうやらこの新手の炎上ビジネスはすでに日本社会に蔓延り始めているらしい。お互いに燃やし燃やされて、その先にいったいどんな未来が待っているのだろうか。だが恐ろしいとか間違ってるとか、そんなことは思わない。私は楽しければそれでいいのだ。この世界が炎に包まれ地獄と化しても、私がそこで笑っていられるならそれで構わない。
話が途切れたのを見計らって、イフリートは私の髪を優しくなでる。ゆっくりと近づいてくる彼の唇を私は受け入れる。同時に舌が口内に入り込んできて、その感触を確かめ合うように絡み合う。時間をかけてゆっくりと私たちは溶けあっていく。彼の首に腕を回しながら私は問いかける。
「私のこと、好き?」
「……ああ、好きだ」
「名前、呼んで」
「詩織、好きだよ」
「私も好きだよ……正人くん」
「——な」
「戸締りは気を付けないとね」
私は胸ポケットからこの家の合鍵を取り出して彼に返す。ミニマリストの彼の部屋には物が少ない。貴重品がどこにしまわれているかは大体見当がつく。欲望を吐きだした余韻に浸っている彼の目を盗んでそういったものを拝借するのはそう難しいことではなかった。名前も年齢も出身も、今なら全部知っている。恋愛遍歴はさすがにわからなかったけど、今となってはどうでもいいことだ。これでもう彼は私のものなのだから。
「お前、もしかして俺が燃やした奴の知り合いか!? それとも誰かに依頼されたのか!? 俺は——」
取り乱す彼の口を私はキスで塞ぐ。今までで一番情熱的な、心からの愛を込めたキス。怯えているようにすら見える彼の表情を眺めながら、私は今まで感じたことがないほどの強烈な愉悦に浸る。ああ、やっぱりイフリートじゃないとだめだ。彼にしかこの焼けつくような渇きは癒せない。
「大丈夫だよ、イフリート。名前も、仕事のことも、誰にもばらしたりしない。二人だけの秘密だよ」
「お前……なんでこんなこと……」
「ねえイフリート、一つお願いがあるの。聞いてくれる?」
「……なんだよ?」
「私、もっといろんな人が燃えてるのが見たい。仕事なんか関係なしに、片っ端から火をつけてほしいの」
「……わかんねえな。詩織、お前何がしたいんだよ?」
「この退屈な世界をあなたの炎で燃やし尽くすの。全部無茶苦茶にして、焼き爛れていく馬鹿どもを見て一緒に笑おう? それがきっと一番楽しいよ」
見えざる炎で人を燃やす現代の悪魔。私だけの、愛しのイフリート。あなたはいったいどんな世界を見せてくれるのだろうか。私は彼に重なり、もう一度優しくキスをする。悪魔を手なずけて、ついに私は魔女になったのだった。
「……真に恐ろしいのはいつだって人間の方か」
彼が静かにそう呟いたのが聞こえた。
愛しのイフリート 鍵崎佐吉 @gizagiza
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