Ⅱ
イフリートの家は私の家から歩いて三十分くらいのところにある。これは偶然ではなく、おそらくイフリートが自宅の近くに住んでいる手頃な女を探していた、ということだろう。その結果私は彼に目をつけられ、こうして通い妻のようなことをしているというわけだ。それ自体はいい退屈しのぎになるから別に構わないのだけど。マンションの三階にある彼の部屋につくと、中からイフリートが出てきて私を招き入れる。
「今ちょっと立て込んでるんだ。悪いけど中で待っててくれ」
彼はそう言うとPCの乗ったデスクに向き合い、何やら忙しそうにキーボードを叩き始める。性欲に忠実な彼がそう簡単に私とのセックスを後回しにするとは思えない。多分かなり大事な用事なんだろう。そうなると思い当たるものは一つしかない。
「もしかして例の仕事?」
「ああ。どうもクライアントが報酬のことでごね始めたらしい。ったく、人のこと燃やしといて金ケチってんじゃねえよ」
冷静な彼がこんな風に愚痴を言うのは珍しい。少し苛ついているようだしあまり横槍を入れない方がいいだろう。私は彼のベッドに横になってスマホをいじったり、こっそり彼の枕の匂いを嗅いだりしていた。そうして三十分ほど経ったころ、彼は椅子から立ち上がり私の側に腰掛けた。
「終わった?」
「ああ。待たせたな」
イフリートはさっそく私の服を脱がせにかかろうとするが、それをさりげなく制しつつ私は彼に問いかける。
「ごね始めたらしいって言ってたけど……それって他にも仲間がいるってこと?」
「まあな。さすがに一人じゃできることに限界がある。といっても多ければいいってわけじゃない。人海戦術は有効ではあるが、ビジネスとして考えるととても採算が取れない」
「どのくらい貰ってるの?」
「ケースバイケースだな。依頼の規模や対象の知名度なんかでも変わってくる。まず口止め料として前金を貰って、あとは成功報酬だ。高ければ数百万だす顧客もいる」
「へぇー、結構ちゃんとしてるんだね」
「お互いにグレーゾーンにいる自覚はあるからな。下手すれば名誉棄損で訴えられかねない。といっても俺たちは火種を煽るだけで直接動くことはめったにないが」
こんなに饒舌なイフリートは初めて見たかもしれない。彼にとってはこの仕事がそれだけ思い入れのあるものだということなんだろうか。イフリートは私の首筋に舌を這わせながら続ける。
「火のない所に煙は立たない。だけど今の時代、どんな聖人にも憎悪を燻ぶらせてる連中はいるのさ。そいつらを的確に嗅ぎつけて、薪をくべてやるだけでいい。それが俺の仕事だ」
炎から生まれた悪魔、イフリート。彼がその名に拘る理由が少しわかったような気がした。
イフリートのことをもっと知りたいと思い始めたのはいつ頃だっただろうか。彼は私のことをよく知っている。学校や家族についての個人情報はもちろん、もっと踏み込んだ事についてもだ。彼とはかなりの頻度で会っているが、私が生理の日に誘われたことは一度もない。口には出さないが、多分私の生理周期まで彼は把握している。やっぱり根っこの部分はストーカー気質の男なのだ。そしてそのせいなのかどうかはわからないが、彼は自分のことはあまり話したがらない。
本名も、年齢も、出身も、恋愛遍歴も、何もわからない。それとなく探りを入れてみても、まるで煙を掴むようなのらりくらりとした態度で返される。もし彼が今住んでいるこのマンションからいなくなってしまえば、私は二度と彼に会うことはできないだろう。だがここにきてようやく彼の仕事について知ることができた。それもとてもまともとは言い難い、犯罪すれすれの仕事だ。それを私に打ち明けてくれたということは、彼にとって私が特別な存在であることを意味している。
彼のいない薄暗い部屋の中で私は考える。彼は他にいったいどんな秘密を隠し持っているのだろう。いや、秘密なんてなくたって別に構わない。私はただ、イフリートのことが知りたい。もっとイフリートに近づきたい。私が彼に歩み寄った分だけ、私は退屈で平凡な日常から遠ざかることができる。だからもっと近く、体を重ねて、ドロドロに溶けあって一つになってしまうくらい近く。
ベッドには二人の温もりがまだ微かに燻ぶっている。悪魔とセックスした女のことを、中世では魔女と呼んだらしい。現代の悪魔とセックスした私は現代の魔女足り得るのだろうか。そう考えると少し笑えた。
少し湿った肌の感触と小刻みに響くベッドの音が心地いい。私が強く抱きしめると彼は私の中で大きく跳ねた。熱っぽいまどろみの中で緩やかに時間が過ぎていく。イフリートとのセックスは気持ちいい。私は彼しか知らないけど、多分彼は結構うまい方なんだろう。最初の数回はさすがにちょっと痛かったけど、今ではもうこの快楽に肩までどっぷり浸ってしまっている。そしてそれを教えてくれたイフリートにも感謝している。ただイフリートはあまり体力のある方ではなかった。私がどんなに求めても一日一回が限界のようだ。そう考えると、有り余る性欲を持ちながらそれを満足に発散することもできない男という生き物が少し哀れに思えてくる。
一息ついて私が指についた彼の汗をこっそり舐めている間、彼はスマホの画面を眺めて薄ら笑いを浮かべていた。
「なに見てるの?」
「盲目の猿」
そう言って彼が見せたのは何かのコメント欄だった。ざっと目を通しただけでも感情的な言い争いが続くばかりでなんだかうんざりする。結局読み取れたのは、誰かが何かしらの理由で炎上して、それについての議論というか口論が行われているということだけだった。
「これもイフリートが燃やしたの?」
「ああ。一度火が付けばそれは周りを巻き込んで止めどなく広がっていく。ここにいる奴らは全員豚か猿のどちらかだ。本当に賢い奴は自分から火に飛び込んでいったりはしない」
燃やされた当人はともかくとして、この人たちはいったい何のためにこんな争いをしているのだろう。こうして炎が大きく燃え上がるほどに、その裏で甘い汁をすすっている人間がいるというのに。そう考えるとこの不毛な舌戦もなんだか滑稽に感じられて、新手の見世物のように思えてくる。
「これがイフリートのせいだって知ったらこの人たちどうするんだろうね」
「さあな。まあこの馬鹿どもはどうせ気づきやしないさ」
そう言うとイフリートは私を抱き寄せて優しくキスをする。
「お前はこの馬鹿どもとは違う。むしろ俺に近い人種だ。正しさなんてものに一ミリも価値がないことをちゃんとわかってる」
イフリートはそう言うけど、別に私は正しさとかそんな大きなものについて深く考えたことはない。今の私にあるのは、楽しいか退屈か、その二つだけだ。楽しければ悪魔にだって抱かれるし、どんなに必要なことだと言われても退屈な日常には耐えられない。だけどイフリートに必要とされることは、私にとっても純粋に喜ばしいことだった。
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