愛しのイフリート

鍵崎佐吉

 かれこれ一年以上の付き合いになるが、彼について私が知っていることはあまり多くない。彼はなんでも知りたがるくせに、自分のことはほとんど話そうとしないからだ。ネットから始まった関係なんてそんなものなのかもしれないが、少なくともセフレ以上の関係ではある相手に、未だに本名すら教えようとしないのは、やっぱり少し異常だと思う。

 イフリート、それが彼の名だ。他にもいくつかの名前を持っているみたいだけど、私にそう呼ばせているということは、彼にとってはこれが一番のお気に入りらしい。由来を尋ねると彼は嬉しそうに教えてくれた。

「炎から生まれた悪魔だよ」

 彼の正確な年齢もわからないけど、二十代後半くらいに見える男が女子高生相手に悪魔を名乗るというのも、やっぱり少し異常だ。だけど彼のそういうちょっと子どもっぽいところも、私は嫌いではなかった。


 そんなイフリートの最大の謎は、彼が何をして生計を立てているのかということだった。あまり家から出ている様子もないし、会社勤めをしているようには見えない。だけどイフリートは私が欲しいと言ったものは、どんなものでもポンと買ってくれる。贅沢こそしていないが相当な額を稼いでいるのは間違いなかった。しかしその謎は思いのほかあっさりと解明された。


 その日のイフリートは上機嫌だった。たくさんキスをしてくれたし、普段はめったに言わないような甘いセリフを囁きながら、私の耳を舐めまわしていた。おかげで新たな性感に目覚めそうになってしまったわけだが、私がその未知の扉を開き切る前に彼は果ててしまった。満足げな表情を浮かべる彼の首に手を回し、その鎖骨を眺めながら私は問いかける。

「なにかいいことあった?」

「あー……わかる?」

「うん、なんとなく」

「ちょっとでかい仕事貰ってたんだけど、うまくいったからさ。またなんか買ってやるよ」

「……そういえば仕事って何してるの?」

 はぐらかされるかと思ったが、少し考えるような顔をしてからイフリートは答えた。

「炎上請負人」

「え、なにそれ」

「芸能人とか配信者とかを依頼を受けて炎上させるんだよ。ボヤくらいで終わるときもあるけど、うまくいけば大金が貰える」

「炎上って、狙ってできるようなものなの?」

「まあ色々とコツがあるのさ。最近は司法も動き出してるから気を付けないといけないことも多いけどな」

 イフリートは変わり者ではあるけどこんなしょうもない嘘をつく男ではない。いまいち実態がつかめないけど、本当にそういうことをやって報酬を貰っているんだろう。それにこの男ならそういうことができたとしても不思議はなかった。


 彼と初めて会ったのは高校一年の時だ。退屈を持て余した私は刺激を求めて、下着姿の自撮りとかをこっそりSNSに上げていた。そしてある日、私の裏垢に届いたその文言を見て、私は戦慄した。「イフリート」と名乗るその人物は、断片的な情報から私の通う学校と年齢を特定し、そのうえで私に直接会いたいと言ってきたのだった。こんな得体の知れない奴の誘いに乗るなんてどうかしている。だけど断ればその腹いせに情報を拡散されてしまうかもしれない、という懸念もあった。悩んだ末に私は彼に会うことを選んだ。もちろん恐怖は感じていたが、同時にこの人物の持っている能力に感嘆し、どんな人間なのか見てみたいという思いもあったからだ。

 そして約束の日、待ち合わせ場所に現れたのは想像していたよりもずっと小綺麗な格好をした長身の男だった。SNSと同じくイフリートと名乗ったその男は、ひとしきりデートを楽しんだら私に手を出すことなく帰っていった。顔が好みではなかったのか、とも思ったが、その後も彼は何度も私をデートに誘った。この脅迫的でありながら紳士的でもある不可解な男が、私の平凡な暮らしに刺激を与えてくれているのは確かだった。やがて迎えた八回目のデートで、ついに彼は私をホテルに誘った。私が彼に恋をしているのかどうかは、正直今でもわからない。彼は知的で顔も悪くなかったけど、やはりどこか普通の人間とは違う。セックスをすることはできても、結婚して幸せな家庭を築くというようなことは想像できなかった。けれどこの悪魔を自称する男の女になれば、閉塞した日常から抜け出せるような気がしたのだ。私は彼に初めてを捧げた。彼もそれがとても嬉しかったようで、それ以来体を重ねたり何かを買ってもらったりする関係が続いている。


 家に帰ってから私は最近起こった炎上騒動についてネットで調べてみた。芸能人の不倫、政治家の不適切な発言、ある有名配信者の男女関係の疑惑。調べれば調べるほどにそういったものは出てきてきりがない。確かに炎上商法なんてものが話題になったこともあったが、まさか炎上請負人まで存在しているとは思わなかった。この中のどれかにイフリートが関わっているのだろうか。だけどあの用心深い男がわかりやすい痕跡を残すとも思えない。これ以上調べたところで徒労に終わるだけだろう。私は気持ちを切り替えて勉強を始める。

 私は家出どころか旅行以外の外泊だってした事がないごく普通の真面目な女子高生だ。少なくとも周りの人間は皆そう思っているし、私もそう思われるように振る舞っている。当然家族や学校の友達は、私の裏垢のことや、ましてやネットで知り合った年上の男に抱かれていることなんて知らない。善良で平凡な彼ら彼女らには私の気持ちなんて少しも理解できないだろう。私にとってはイフリートだけが、この退屈な日常に彩りを与えてくれる存在なのだ。机の脇に置いたスマホが揺れて、『次いつ会える?』という私のメッセージに対するイフリートの返信が表示される。

『来週の土曜。久々にどっか行くか?』

 私は少し考えてから『映画館がいい』と返信して、再びペンを走らせる。


 別に私は特別映画が好きというわけでもないし、何か見たい映画があったわけでもなかった。ただ彼と同じものを見て、そこから得た感覚を共有するという行為が好きなだけだ。彼もそれをなんとなく察しているのか、評判のいい映画を事前にリサーチして来てくれた。洋画は字幕じゃないと嫌だと彼が言うので、私たちはある小説が原作の邦画を見ることにした。女子高生が朝起きたら宙に浮いてしまっている、というぶっ飛んだ設定の話で、その拘りの撮影技術なんかが話題になっているらしい。評判通りなかなか見ごたえのある映画で、私はスクリーンに釘付けになる。ふと気になってちらりと隣を見ると、イフリートはスクリーンの光に照らされながら、その横顔に薄ら笑いを浮かべていた。

 映画を観終わった後の独特の満足感と疲労感はどこかセックスした後と似ている。前にイフリートにそう言ったら、彼はそれは間違いではないと言った。

「セックス、スポーツ、スクリーン。この三つは人間を堕落させる娯楽の代表格だ。今の時代ならSNSも入れていいかもな」

 だったらスポーツ以外の三つにどっぷりとハマっている私たちは堕落の権化ということになるだろうか。まあそれでも別に構わないのだけれど。そしてセックスと同じというのなら、やはりピロートークは大事だ。私たちは近くのカフェでちょっとしたスイーツを食べながら映画の感想を話し合う。

「原作読んだことある?」

「いや、ないな。しかしよくこれを映画化しようと思ったな」

「すごいよね。主人公、ずっと浮いてるし」

「まあストーリーは平凡だったけど、絵面は新鮮だったな」

「そう? 私はストーリーも好きだけどなぁ」

「……確かにお前はそういうとこあるよな」

「ん、どういうこと?」

「なんの不自由もない生活を送りながら、その日常をぶっ壊したいって思ってる」

「イフリートは違うの?」

「俺は今の生活に満足してるよ。金も時間もあるし、話の分かる彼女もいる。これ以上望むものなんて何もないね」

 彼女。イフリートがはっきりと私のことをそう呼んだのは初めてかもしれない。セフレと彼女の線引きがどこにあるのかなんてわからないけど、そう呼ばれて悪い気はしなかった。

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