第三話   『夏の亡骸』

 七五三翠、という女の子がいた。


 オレは、その子が好きだった。



 

『……み、みどり。オレ、あの、言いたいこと、あんのやけど』


 しばらく灯篭の明かりを見て、口を開いた。翠はオレよりも少し高い岩に座って、ぷらぷら下駄を動かしていた。


『ん? なに、かしこまって。珍しいこともあるもんやなあ――って、あ』

『うわっ』

『待って、下駄落ちてまった』


 空中にぷらぷらと浮かせていた下駄が落ちるのは、確かに当然のことだった。岩の上を跳ねた下駄が音を立ててオレの方に転がってきて、足が滑らないように注意しながらそれを拾った。

 あの子は――翠は、それに、『ごめん、ありがとお』と言って。はやる気持ちもあったのか、オレの乗っていた岩に急いで降りようとして――降りようとして。


 かつん、と妙に間抜けな音がした。片足に残った下駄が岩の滑らかな部分に沿っていった。翠の重心がズレて、矮躯わいくがゆらりと揺れた。オレはただ一つの声も出せず、ただきょとんと目を丸くしていた。満月のようにまあるく見開かれた瞳がオレを真っすぐに見て、小さな手が目の前に伸ばされた。


『あ――ひ、ろ』


 どぼん。


 存外、小さな音だったのを覚えている。


『………………翠?』


 独り呟いた声は本当に愚かしかった。愚の骨頂とでもいうべき醜態を晒していた。晒す相手がいた方が幾分かマシなくらいだった。――射干玉ぬばたまの闇である水面がゆらぐことはない。


 喉がつまって息がつまって、岩に手を突いて『翠!?』と叫んだ。ばちゃ、と水音がした方に咄嗟に視線を向ける。ごぽっと空気が出る音と白い手が脳髄に焼き付いた。勢いのままに水に飛び込もうとしたが、自分もまた服を着ていることに気付いて僅かでも泳ぎやすくするために上の服を脱ぎ捨ててから飛び込んだ。夏なのにぞっとするような冷たさだった。


『み――どり! 翠!』


 声はもうしなかった。暗闇の中でオレの声だけが響いていた。ばちゃばちゃと水をかいて、足がつくところまで岸に寄る。前髪から滴る雫が邪魔で、髪をかき上げながら『翠、翠』と叫ぶ。夜闇が全て吸い込んでしまう気がした。直前まで生温かった風が牙を剥いて全身に襲い掛かっていた。


『翠――みど、り……』


 返事はなかった。


 夏虫の鳴く声が、温度を失った指先が、オレの脊髄に現実を叩き込む。脳はずっと、水をかけたゲーム機みたいに止まってしまっていた。いっそ壊れてしまった方が楽だったかもしれない。


 腰が抜けて、ぱちゃ、と水しぶきを発生させながらへたり込んだ。不整脈かと疑うくらいに心臓が勢いよく鳴っていた。蛇が心臓を中心にとぐろを巻いているような気分だった。


『みどり』


 それは返事を期待したものでなかった。ただひたすらに喉の奥が息苦しい。あ、とか、う、とか意味のない声だけがろ過したように溢れている。全身に熱のある部分などどこもないというのに頭の奥だけが熱い。ひっ、ひっ、と子供のような泣き声が出た。どうしてオマエが泣くんだと問い詰めたかった。その泣きっ面をひっぱたいてやりたくてしょうがなかった。いや、今だってそうなのだ。


 翠は翌日、そこから数百メートル離れた川の浅瀬で岩に引っ掛かっていたのが見つかった。警察に二つほど訊ねた。オレを同情の目で見て、つらそうな顔をしながら教えてくれた。


 下駄は履いていなかったらしい。

 ビードロの髪飾りも、していなかったらしい。



 なにからなにまで喋った。


 でも一つだけ喋れなかった。


 好きって言葉だけ言えなかった。



「――――」


 気付いたら、そこに立っていた。

 七五三翠の、墓の前に。


 ふら、と顔ごとあたりを見渡す。周りには誰もいない。苔の生えた墓石は静謐で、鬼灯がいくつか飾られている。

 雫の滴る音がすると思ったら自分からだったが、当然のことである。いつも後ろに流している前髪も崩れ、視界を邪魔した。川から無意識のままここに来たようだった。まあ、確かにあの場所からこの寺はさほど離れていない。歩いても十分ほどで辿り着く――自分の息がひどく荒いので、恐らく走ってきたのだろうとはわかった。

 もう一度目の前に視線を戻す。


「みどり」


 子供のような声を出してしまえば、もう我慢できなくて。身体に力も入んなくって、どさ、と膝が地面につく。


「…………ごめん、翠、翠すまん」


 蛇口の栓から水が溢れるみたいに、謝罪の言葉がぼろぼろと口から零れた。同時に視界がじわじわ滲んで、二十歳も超えた大人が、と頭の中で自虐する。奇しくも敬虔な信者が祈りを捧げるような恰好だった。オレは七五三翠に祈りを捧げていた。


「オレ、オレもうずっとオマエに謝りたくて」


 もう我慢できない、やなかったな、と思った。

 オレはとっくのとうに限界やったんや、って。



 * *



 和が泣くのは、たぶん、小学校振りだ。さらに言えば、七五三翠が死んだ時以来だろう。

 ずっと泣いていなかったからか、随分と下手くそな泣き方である。啜り泣きの合間に謝罪を何度も口にしていて、彼が今まで素を見せなかった人達に見せたら同一人物かと疑われそうな様子である。

 彼はあの時と同じように、何度も何度も七五三翠の名前を呼んだ。

 呼んだら七五三翠が返事をするとでも思っているようだった。

 ――そんなことは、あるワケがないのに。



 * *



 後悔は、尽きない。夜の川なんて危ないに決まっていた。常識的に考えて、幼稚園生の常識で考えたってそんなことは当然なのだ。

 誰もオレを責めなかった。翠のお母さんだって、オレが無事でいてくれただけで嬉しい、と言った。オレは翠の両親が、霊安室で医者の目も憚らずに号泣していたのを知っている。


「――翠」


 オレの時間は十年前の夏から、一秒だって進んじゃいない。



「ずっと、好きやった」



 喘ぐように、縋るように、祈るように。


「十年前から――それよりずっと前から」


 とにかくなんでもいいから、そう言いたかった。ずっとずっと、オレはそれだけが言いたかったんだ。それ以外オマエに言うことなんて一個もなかったのに。


「言わんくて、遅うなってすまん」


 本当だよ。オマエに嘘なんかついたことないけど、これだけは本当なんだよ。信じてくれって言わなくてもオマエは信じてくれるだろうけど、でも絶対信じてほしいんだよ。



 * *



「ずっと、好きやった。十年前から」


 和が七五三翠の墓を見上げてそう言った。風も、動物も、植物も、ここに存在する全てのものが息をひそめていた。この時だけは、世界の全ては和弘人のために存在していたのだ。


 澎湃ほうはいと溢れる涙を拭おうともせず、和が誰にも言うことのなかった心情を吐露し続ける。もしかしたら誰かに聞かれているかも、などとは全く考えていないようだった。


「言わんくて、遅うなってすまん」


 ……ほんとやよ、と思った。遅いよ。どんだけ待たせるん。言うてくれただけ、ええけど。


 そうやって、和に七五三翠の――私の声が届くはずもなかった。この十年、どれだけ彼に話しかけても何一つ反応してくれなかったのだ。世界は一人称視点じゃなく、三人称視点で存在しているのだと理解させられた。


 こんなことなら幽霊になんてなるんやなかった、と思う。なりたくてなったワケではないし、自分以外の幽霊も見たことないけれど。自惚れでなく、私が死んだせいで彼は変わってしまった。それがすごく嫌だった。


「――翠?」


 ……ふと、それが疑問形であることに違和感を覚えた。いじけて俯けていた顔をあげると、和の目が真っすぐに



 * *



「ほんとやよ」


 その、少し拗ねたような、声は。

 オレが一生忘れることのない、声だった。


「――翠?」


 振り返る。

 ビードロの髪飾りと、かわいい下駄と、花柄の浴衣を着た七五三翠が、そこにいた。十二歳の頃から全く変わっていない様子の翠がオレを見て、ぽかんとした様子で口を開ける。ぽかんとしたいのはこっちの方だ。「みえ、てる?」と当然のことを訊ねてきた。


 返事をしようとしたけど、嗚咽が溢れて止まらなかった。触れようと手を伸ばしたけれど、あの時翠の手を掴めなかったことを思い出して中途半端な姿勢で止まり、ふらつく。ああ、ああ、ああ。


 胸が、痛い。どうしようもなく胸が痛い。


「……うそや、」

「――――」

「好きやったなんて、ほんまは嘘なんや」


 口を開けっぱなしだった翠が、オレの言葉を聞いてぱたん、と閉じる。



「オレ、人生投げ出すくらい、今もオマエんこと好きなんや……」



 言いたいことは、たくさんあった。でももうそれ以外にオレの気持ちを表現する方法なんてなかったのだ。子供の恋だと笑われても、もうなんでもいい。トラウマで忘れられないのを恋だと勘違いしているだけなのかもしれないけど、それでもいい。


「――――」


 翠が目元を赤くさせて破顔した。

 もうこの笑顔が見れるならなんだって良かったのだ。


「……ありがとお。私も好きやよ、ひろくんのこと」

「――――」

「ずっときみの傍におったよ。やからもう全部わかっとるよ」


 翠が言ってくれていることを聞き取れても、うまく意味が理解できない。なにか、……先程から妙に、頭が働かない。ぐらぐらする。それでもずっと頭の中にある単語を、翠、と口に出す。



「私、幸せやったよ」



 自分の手が震えていた。なにが起きているのかサッパリわからなかった。草の匂いをひどく近くに感じる。自分が今上を向いているのか、下を向いているのかさえ判別がつかなかった。


「もう大丈夫やよ」


 体重を支えられなくなった。自分が倒れたことだけはわかった。やばい、意識なくなる、と反射的に思う。目の前が昏くなる。舌が少しだけ動く。



「そう、か……」


「――うん」


「そら……、よかった、わ」



 もう自分が何を言っているのかわからなかった。視界が完全に闇に包まれた。

 翠が笑った気がした。

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