第二話   『在りし日の、』

 和は両親と共に帰省していたので、和が買い物要員として駆り出されるのは必然的なことでもあった。

 が予想していたとかしていなかったとかは置いておいて、とりあえず面倒くさいことに変わりはない。現在一人暮らしをしている身として買い物はもちろん嗜んでいるが、一人分の量と三人分の量はだいぶ違う。しかもド田舎なのでスーパーが笑ってしまうほど遠いのに、車の免許も車自体も持っていないので自転車で行くしかない。


 ――暑い。疲れた。暑い。


 もはやそれしか考えていない和はだらだらとほぼ歩きの速度で自転車を漕いでいた。速く漕いだ方が恐らく涼しいし、この地獄のような時間も早く終わると思うのだが。

 亀と並行さえできるのではないか、という速度で走っていた――どういう表現だ――和は、急に涼しい風が吹いたのに顔をあげる。

 川沿いに出たのだ。体感が一、二度違う。


「――和!」

「おあ」


 急に呼びかけられて、咄嗟にブレーキをかける。声のした方を振り返ってみれば、つい一昨日見たばかりの顔があった――東雲がいた。



 * *



「つか、いいん? どっか行く途中やったろ」

「あ〜いい、いい。買い物頼まれただけやで」

「うーんそれはたぶん大丈夫やないんやない?」


 川の上を走り抜ける風が直に当たる。東雲の買った缶ジュースを桁橋の上にて嗜む大人二人。相変わらず陽は差し続けているが、涼風のおかげでいくぶんか涼しい。観光客だろうか、どこからか子供の笑い声がする。

 自然と――いや、不自然と言うべきか――会話が止まった。久しぶりに二人の間に流れた気まずい沈黙だった。


「……わるかった」

「うん。お前が悪かったわ」


 べき、と缶が嫌な音を立てる。ちなみに和の握力は七十キロである。

 怖……という顔をする東雲。


「まあ、いいわ。僕も無理やり連れ出して悪かった。それはすまん」

「……おう」


 仲直りというには少し物足りない気がするものの、とりあえず居心地の悪さはなくなった。

 それまでの空気を断ち切るようにして缶ジュースをラッパ飲みする和。案の定気管に入ってゴホゴホとむせる。それを呆れた目で東雲が見た。


「夏休み、なにしてたん?」

「……フツーに過ごしてた」

「いやなんもわからんわ」


 顔を顰めた東雲に、あー、と思い出すように視線を動かした和。大学生の夏休みは基本的にやることがない。インスタだって(意外だろうが和はきちんとそういうSNS系を使っている。外面は陽キャな猫被り野郎なのだ)最近はほとんど見ていないが、たまに見ると友人らがことごとく旅行や好きなことに時間を費やしているのがうかがえる。


 和は特に旅行もしない日々だ。東雲ほどではないが仲の良い友人からは「インドアな体育会系」と一見矛盾した言葉で評され、家でだらけたりジムに通ったりしている。


「あとは、まあ、バイト。十八日にバイト入れとったから、明日か明後日には帰らなかん」

「ほか。これからの予定は?」

「特に……、ないんなあ」


 空になった缶をぷらぷらと振る。八月末までのバイトはあるが、バイト先の店長が「最後の夏休みくらい遊んできなれよ」と言うので九月分の予定が全くないのである。この男、大学の夏休みは四度目というのに暇の潰し方を全く知らない。


「ほんなら僕と一緒に旅行しん?」

「は?」


 きらきらとした顔で、和にとっての爆弾発言を落とす東雲。彼はもう一度「は?」と言った。


「どうせ行くなら海外か、もしくは沖縄とか北海道がええよなあ。暑いし北海道の方がえか? やでも、どうせなら海で泳ぎたいしな。海外ならそんな金かからん台湾とかの近場がええんやけど」

「ちょっ、おま……、は? い、意味わからん。なん――なんで旅行? わからんわからん」

「もが」


 あまりに気が動転して、和は東雲の口を手で塞いだ。甲高い音を立てて手から缶が滑り落ちた。

 東雲は和の手の平をガチッと噛む。「ッッェ!」と叫んで慌てて和は手を引っ込めた。そのまま手を東雲の方に戻して彼の服で唾液を拭く。


「拭くなや」

「噛む方が悪いやろ……犬かよ……」


 ドン引きである。まあ流石に誰しもドン引きするだろう。

 オレ金ないし、と目を逸らす和に、「いやお前、休みの前に金有り余っとる言うてたやん」と痛いところをつく東雲。和は好きなことも特にないので、バイトはするだけして貯金しているのだ。ちなみにバイトも暇つぶしのためである。


「あーでも外国行くんは流石に無理やろか、チケット取れるかもわからんし。東京の人なら京都とか大阪て言うんやろーけど、僕ら日本のド真ん中おるしな。はじっこ以外行くとこなくない?」


 ぺらぺらぺらぺらとよくもまあ回る口である。わざわざ反論するのも面倒そうに欄干に突っ伏す和だが、そうしなければ本当に「じゃ今から北海道行くで!!」と拉致される恐れもある。


 というか一昨年は(二回生のとき)やられた。「……東京。行きたない?」「いや別に」という会話をした二週間後、午前七時くらいにいきなり家のピンポンを連打されて東京に拉致られた。好きな画家の個展があったらしい。東雲はご飯を奢ってくれたが交通費は一銭も出してくれなかった。


「オレ院行く予定やし、そんなん行く暇あるなら勉強するわ。――あ?」

「そんなこと言わんでさあ。……ん? なに?」

「いや、あれ……」


 和がすっと橋の下を指さした。橋の真下から少し離れたところに浮き輪がある――いや、流されている。人がいる様子はない。


「うわ、流されてもーたん? かわいそやなあ。さっきあっちに家族連れの観光客おったでそれやない?」

「…………おい、あれ、子供用だぞ」

「え」


 特に良いワケでもない和の視力だが、注視すればそのサイズが明らかに大人と違うことには気付く。東雲は大学の授業があるとき常に眼鏡かコンタクトをしているくらいに目が悪いので、「えマジ!? 見えん!」と橋から身を乗り出す。

 子供用の浮き輪が流されている、だけならまだいい。子供が――子供が使っていたのが、万が一、手元を離れてしまったのなら。


「――ッ」


 ガッと木でできた手すりを掴んで東雲と同じように身を乗り出した。橋の真下なら川底にある岩さえ見えるくらいに透明度が高いが、角度が変わると乱反射で水の下は全く見えなくなる。太陽光が強く水面に反射して見づらい。目を細めて浮き輪の周りを凝視した。


 ――浮き輪の手前、五メートルほど離れたところで小さな手が水面をかくのが見えた。続けて小さな顔が僅かに水上に出る。そして、沈む。


「い――今なんか動いた!? マジで見えんのやけど、」

「――――」


 和は考えるより先に身体が動く男だった。


 手すりを掴んでいた力をさらに強めて、地面を勢いよく蹴った。前進の勢いを殺さずに欄干の上に足を滑らせ、空中に身を踊り出す。東雲が理解できない、とでも言うようにポカンと口を開けていた。

 数秒の滞空時間ののち、水面に自由落下――バッシャーン!! と猛烈な水音が東雲の鼓膜を殴りつけた。


「――はァ!?」


 ただでさえ身を乗り出していたところにさらに身を乗り出す。和が落ちた衝撃で数メートル舞い上がった細かな水しぶきが水面を揺らしていた。その一瞬後――恐らく落ちてから三秒後くらいに、「ぶはぁっ」と水の中から顔を出す和。浮かびながら片手で目を擦って水分を飛ばす。

 東雲はその様子を見ながら「何してんのや!」と毒づいて、きちんと橋の横の階段を使い下へと駆け下りていった。



 * *


 

「げほっ、ごほ」


 あまりに久しぶりに飛び降りなんかしたので(小学校の頃は川に飛び込むなんてことざらにやっていたのだ)、喉と鼻に水が入った。オレは咳き込みながら浮き輪が浮かんでいる方向に少し泳いで、大きく息を吸い込んでから水の中に顔を突っ込んだ。


 ――ほんとうに、きれいだ、と思う。


 目を開ければどこまでも透明な水が目の前に広がっていた。眼球への直接の刺激を減らすため、極限まで目を細めながら水中を探す。瞬時に近くを見渡したがいない。どこだ、と探そうと水をかきわけて水泡に気付く。咄嗟に視線を下に落として、苦しげな表情で沈んでいく女児を見つけた。肺の空気がなくなったせいで浮かべなくなっているのだ。


「――――」


 ゴポポ、と口端から空気を漏れさせながらその子の方に泳いでいく。身体をしっかりと掴んだあたりで、もう目を開いているのが限界で目を瞑りながら上を目指した。


「は、あーっ、げほっ! くっそ、ゴホッ、」


 ようやく肺に供給された空気は美味いなんてモンじゃなかったが、反射的に咳き込みながら浮き輪の近くへと泳いだ。ぐったりとした様子の女児に嫌な予感が止まらない。息をしているか、心臓が動いているかを確認したいが、それより先に安定したところに置かねばならない。浮き輪についているロープに手を伸ばして引き寄せ、女の子をその上に置く。岸へと動かしながら口元に手を当てた。


「――――」


 息が、ない。


 頭の中が一気に真っ白になって、呼吸が荒くなった。この川は川岸の方が浅くなっているのでなくただ岩があるのみなので、先にオレが陸地に上がってから女の子を引っ張り上げた。気を失った子供は、オレの想像よりもずっと重くて軽かった。水を吸って重くなった服を肌に纏わりつかせながら、再度彼女の呼吸を確認しようとする――と、ちょうどその時「げほっ!」と息を吹き返した。


「……だ、……大丈夫か、」


 ゴホゴホと涙を滲ませながら咳き込む女の子の身体を起こす。

 頭が強く痛んでいた。喋っていないはずなのにオレの声がした。



『――きれいや』



 彼女は何度か咳き込んで、一歩遅ければ死んでいたかもしれない自分の状況を子供心に理解したようだった。見知らぬ人間が隣にいるにも関わらず、その丸い瞳にぶわっと涙を溢れさせて「わああああ!!」と泣き喚きはじめる。


 オレはそれを慰める暇もなく、両手で顔面を覆って地面に膝をついた。かち、かち、と目の前が黒と青に何度も瞬いた。夜の川――違う、今は真昼だ。それは、わかっている。理解はしている。だけど脳髄に焼き付いた光景が、もう十年も夢に見る光景が、それくらいで消えるはずがない。


『………………翠?』

「くそ、くそ、くそ――うるさい」


 子供の泣き声が重なった。救いようのない無力な子供の声だった。がり、と岩を引っ掻いた右手を今度は強く地面に叩きつける。どん、どん、どん、と何度も鈍い音がして、突き刺すような焼け付くような痛みがオレを僅かに現実に引き戻した。はっ、と浅く息が漏れる。


「かのおー!!」

「…………、」

「いま、そっちに親御さん行くで、待っとってえー!」


 ぐらつく頭をなんとか動かして声のした方に向ける。景色がダブった。もう本格的にこれはダメだと思った。

 何度も何度も泣き声がするのだ。何度も何度も後悔していたのだ。どうしようもなくて、もう本当にどうしようもなくて。


「――和? え、おま、どこ行くん!? は、ちょっと、待ちなれよ!」


 ただただこの場から逃げ出したくてしょうがなかった。


 もう誰の声も聞こえなかった。

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