積極

淡島ほたる

積極

 このところ、眩暈がする。

 おもては真昼だというのにカーテンの引かれたこの部屋は、私たちを歓迎していないのだろうという気持ちにさせた。酷暑日。カーラジオから流れていた、パーソナリティの明瞭な声が頭を過る。

 この建物の向かい側には、人が歩けるようになっている防波堤があるらしかった。かすかに波の音が聞こえて、自然と目を閉じる。20年以上前に建てられたという郊外のホテルは、まるで古代遺跡のように気配を消して佇んでいた。昴が迷いなくハンドルを切って真っ白なゲートを通過したときに、やめようと伝えればよかったのだ。冷房をつけているはずの車内はそれでも蒸し暑く、私だけではなくおそらく彼も、消耗しきっていた。


 すぐそばに彼がいると、心が無闇に乱されてしまって困る。首筋に触れる昴の手のひらが熱くて、苦しい。

「最近、眠れてる?」

「うん。ぐっすりだよ。どうして?」

「暑いから、七海は大丈夫かなと思って。おれ、夏、苦手なんだよ。すぐに目が覚めちゃってさ」

「そっか。私は大丈夫だよ、ありがとう。昴もよく眠れるといいね」

 よく、眠れるといいね。最後の言葉が思ったよりも冷たく響いてびっくりした。きちんと、私の声になっていただろうか。昴はさして気に留めていない様子で、「ありがとうね」といつものような正しさをもって笑った。

 日は穏やかに翳っていく。カーテンの隙間から覗いていたか細い光すらも消えて、途端に脈がはやくなっていくのを感じた。

 私は昔から、光のない場所に足を踏みいれると死にたくなるという厄介な性質をもっていた。たとえばそれは、映画館であったりトンネルであったりするから、誰かと出かける際は気を遣う。迂闊極まりないとは思うが、〈すべて〉を呪ってしまうのである。恋人の、昴のことさえも。


 部屋の電気が消されて、昴以外が見えなくなる。私は反射的に目をつむった。もう私は私ではなくなるのだということに、軽い絶望を覚える。

 彼が真夜中の砂漠に似た影を背負ってこちらに近づいたとき、ローテーブルに置いてあった彼の携帯電話が、ごく短い明滅を繰り返しながらふるえた。私は深呼吸をして、昴から慎重に距離をとる。

 昴が会社からの電話にでているあいだ、私はポーチから薬を取り出した。彼は扉のほうを向き、来週の件ですね、了解しました、と表情を崩さずに言葉を返している。普段よりも低く、かすれた声だった。

 PTPシートから薬を押し出すときの、ぱき、という軽い音で我に返る。これを服むことで、身体に何らかの作用をもたらすという事実が、胸の内側をほんの少し明るくした。私はつまるところ、世界中の〈すべて〉に過剰な期待をしすぎているのだと思う。ペットボトルのミネラルウォーターを口に含んで、小さな錠剤を舌にのせた。感情まで流し込むようにふたたび水を飲むと、こんどこそ一種の安堵を感じる。ポーチを鞄にしまったタイミングで、昴がこちらに戻ってきた。シーツの上に、もうひとりぶんの重さが加わる。

「ごめんな。話、終わったから」

 気にしないで、と伝えるように首を横にふると、彼は口許をゆるめて私の髪を撫でた。



〈すべて〉が曇りがかったバスルームにいると、淡いライトに照らされた昴の身体が、べつのいきもののように映った。瞬きをしてみてもまぼろしめいた感覚は消えなかった。そうして、しばらく視力を測っていないことを思い出す。だから身のまわりに起こることのほとんどに、無頓着なままでいられるのかもしれなかった。現実は、曖昧なほうが安全だ。ジェットバスは細かな泡を吐きだすばかりで、たぶん壊れかけている。

 先にあがるね、と言い残した昴にうなずいて、私はちゃちな照明の水色に見惚れていた。光を求めてしまうのは、拘泥してしまうのは、背徳的な行為のように思える。奮いたった気持ちのまま手をかざしてみると、人工的な明るさが肌に纏わりついた。清潔とは到底言いがたいこの浴槽で、私はわたしたちの、数年後についてを考えている。その世界では、昴の輪郭も私の輪郭もひとしく朧気だった。なにもかもが不明瞭だ。滑稽とは、いまの自分のためにつくられた言葉だろうと思う。もっと、短絡的になればいい。自分自身のために作る料理のように、おおざっぱに。振り向かずに。


 バスルームをでて足許に目を遣ると、ゆうべ塗ったばかりのネイルが、一部分だけ剥がれかけていた。綺麗だった三日月色が、いまは柔く濁っている。さみしい。そう率直に感じたのは久し振りだった。ただひたすらにさみしかった。


 あなたと、近づくたびに離れていくように感じてしまうのは、奇妙なことなのだろう。


 部屋に戻ると、ソファに身体をあずけていた昴が「おかえり」と微笑んだ。間接照明の下で、私は気づかれない程度に短く息を吸って、ただいまと返す。

「なにか、軽く食べて帰る?」

 そう投げかける彼の声は凪いでいる。緊張しているのは、いつも私のほうだけなのかもしれない。むなしいと思った。いまは、何時なんだろう。ここに来てからもう随分、時間が経った気がした。ぼんやりと頭の芯が熱く、はげしい眠気を感じた。

「そうだね。お腹、すいたかも」

「ななはどんなのがいい?」

「中華。熱いのがいいな。春巻とか」

「え、七海、熱いの好きじゃないでしょ?」

 彼が不思議そうにいうので、過去を思い返そうとしたが、だめだった。ほんとうの私は、昴になにを話しているのだろうか。

 なな、と呼ぶこのひとのうわずった声を、知らないと思った。

 意味のないことだ。世界中で自分だけが孤独だなんて、ばかみたいだ。けれど、昴と一緒にいても、孤独は強まるばかりで私を離してはくれなかった。

 私とほとんど変わらない昴の背丈も、日焼けした腕も、綺麗なうなじも、たしかにあなたのものであって、私のものではなかった。互いの差異は、私とあなたが他人であることを明確に認めてくれているようで、うれしかった。

 私と昴のあいだに流れる川を埋めたくはない。水が交われば濁って、あとは、あとかたもなく流されていく。



 このところ、眩暈がする。

 シャンプーをした髪から立ちあがる薄い花の香が、胸を苦しくさせる。

 昴の手が私の左耳の後ろを通り、熱いな、と思った。あなたの、体温が高い。温度はいつも直截だ。私もあなたも、子どものようなものなのだと解る。ばかげている。

 夏、あなたの影が、一段と濃くなっていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

積極 淡島ほたる @yoimachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る