4. 咲村蘭

 こんな夜も深くなってきたいうのに、私は化粧をして、お気に入りの白のワンピースにグレーのカーディガンを羽織り外を歩いていた。

 私の嫌いな蘭という名前。いくら私が装っても、きっとその名前に見合う美しさは纏えないのだと思う。

 でも責めて、その名前の力を借りることくらいは許してほしい。そして私は外へ出たのだった。


 雨は降っていないものの、湿った空気が辺りを冷やしていた。

 眠れない夜の浮遊感と、緊張で強張った体が私を私の体から引き剥がしそうだった。


 ふぅ、と深く息を吐く。

 マスクをしていない私の口から、吐いただけの息が空気に消えていく。

 コンバースの黒いスニーカー越しに、硬いコンクリートを感じる。

 大丈夫、この体はまだ私のものだ。


 一度しか行ったことのない場所だというのに、私の体は驚くくらいにその道のりを覚えている。

 駅の乗車口、駅の名前、どの車両から降りると階段が近いか、どの改札を出れば良いのか。

 

 私はあの霊園に向かっている。

 そして、飯塚さんに会いたい。


 正直、会えるかもわからないし、会って何を話していいのかもわからなかった。

 他人が見たら、ヤケクソだとか、今の辛さから逃げているだけ、と思うのかもしれない。

 でも例えそれが本当のことだったとしても、私はそれでも良かった。

 だって、もう私は霧の中にいるんだから。


 電車の座席に座っている間、すごい速さで目的地に近づいているにも関わらず、不思議と諦めて帰りたいと思うことはなかった。

 それは、換気のために開けてある窓から入ってくる冷たい風が、そこが地続きの世界であることを教えてくれたからかもしれない。


 怖さがないといったら嘘になる。

 私が触ろうとしているところは実は一切手を付けられない場所で、どうしようもなく拒絶されてしまうかもしれない。

 そのとき私はおかしくなって、自分を取り巻くものすべてが壊れてしまったように感じてしまうかもしれない。

 そう考えると、その壊れた自分が一瞬自分の中に入り込んできて、いたたまれなくなる。

 でも今、私を包む風、音、温度がすぐに私の体がここにあることを思い出させる。

 多分、今日が運命の日だ、と思った。


 電車を降り、駅の改札を抜けると例のパチンコ店が時代にそぐわないライトを光らせていた。

 閉店の時間なのか、片開きの自動ドアから人がぞろぞろと出てきていた。

 その人たちは疲れ切ってそれこそ幽霊のような顔をしていたが、それでも確かにその足で歩いていた。

 今自分がどんな顔をしているのかわからなかったけど、もしかしたら似たような顔をしているかもしれない、と思った。

 彼らにちょっとした親近感を覚えながら見上げた上り坂の先には、霧が立ち込めていた。


 今更、と改めて思い直した。

 私は霧の中に足を踏み入れ、霊園を目指した。


 ところが、霧は思っていたよりも濃かった。

 前回は前に飯塚さんがいたこともあってあまり意識しなかったけど、霊園は少し遠いところにあるようだった。

 霧が濃く先の方が見えないから、あとどれくらいでたどり着けるのかわからない。

 足が疲れて、自分がどうやって前に進んでいるのかわからなくなってきた。

 徐々に、私が私の体から離れていくような気がした。


 霊園の入り口が見えた。

 ようやくたどり着いた霊園は霧をまとい、前回来たときとは違う装いを見せていた。

 お墓が見えないわけじゃない。霊園の全体像も見えるし、お墓の一つ一つもよく見える。

 でもその隙間に漂う霧が、本来いるべきではないものを拒んでいるようだった。


 私は何も考えず、その入り口に体を進めていた。

 もう、私は私の体から離れてしまい、幽霊になってしまっているのかもしれない。

 本来霊園にいるべき姿になった私が、霊園を突き進んでいく。


 小屋の二階から光が漏れているようには見えなかった。

 誰もいないかもしれない、と思い、開けっぱなしになったドアを見てみると、入り口には飯塚さんの靴が並べられていた。

 来る前からわかっていた。飯塚さんは絶対にいる。


 靴を脱いで小屋に入ると、図工室のような木の匂いがした。

 実際に、見えるところはほとんど木でできているように見えた。

 正面の廊下と、左手側にある部屋に用はなかった。

 右側の壁沿いに伸びた手すりのない階段を、ゆっくりと上る。


 音は立てなかったと思う。

 でも、階段を上がりきったときには、もう視線を感じていた。

 置かれたものの輪郭が捉えられないほど、部屋は暗かった。

 なんとなくわかるのは、二階に廊下やトイレといったものはなく、一つの部屋であるということだった。

 そして、窓際に置かれた椅子に、飯塚さんの影がこちらを向いて座っていた。


 幽霊みたい、と思った。

 でも、飯塚さんから見た私も似たようなものかもしれない。


「座って」


 飯塚さんの声とともに、飯塚さんの影が手招きする。

 飯塚さんの前には丸テーブルがあって、その上にはなぜか点けられていない球体の卓上ライトが置かれていた。

 テーブルを挟んで飯塚さんの対面の椅子に私は腰掛ける。


「待ってたよ」


 飯塚さんは卓上ライトのスイッチに手を伸ばした。

 そのとき、私の手がスイッチを塞いだ。

 突然動いた手に私自身も驚きながら、その理由に一瞬で気がついた。


 飯塚さんは、今目の前にいるのが幽霊の子だと思っているかもしれない。


「どうしたの?」

 

 黙って手をどかさない子に、飯塚さんは諦めて少し笑ったような息遣いをする。


 それから、沈黙。

 飯塚さんはずっと暗い窓の外を見ている。

 私も少しだけ窓の外を見てみたが、外に明かりはなくほとんど何も見えなかった。


 うっすら浮かぶ飯塚さんの横顔をじっと眺めた。

 やっぱり表情は全く見えないし、そこにあるニュアンスも読み取ることができなかった。

 

「幽霊は、いる」


 飯塚さんが突然、独り言のように言った。

 この間idocoで聞いたような、事実をただ言葉にしただけのような言い方ではなく、誰かに言い聞かせてあげたような言葉だった。


 幽霊は、いる。

 私もそう思う。

 でも、今飯塚さんの目の前にいるのは幽霊じゃなくて、私だった。

 飯塚さんが思っているような幽霊は、いない。


「俺はそう思ってるよ」 


 いない、はずなのに、その言葉に違和感と悲しみを覚えた。

 飯塚さんは、幽霊を信じる信じないじゃなくて、実際に会ってその絆を確かめ合っていたはずなんだ。

 そして、今だってその子は飯塚さんの目の前にはいるはずなのに、どうしてそんなに悲しいことを言うの。


「ここに来ても会えない日があるのは、俺が生きることに慣れてしまったから」


 飯塚さんが何を言っているのかはわからない。

 その子へ今まで紡いできた話の延長にある言葉なんだ。

 飯塚さんが生きることに慣れていなかった頃に、縋るように話してきた言葉の先にあるもの。


「世界にはここしかなかったはずなのに、ここ以外にも何かがある世界になっちまった」


 きっと飯塚さんにとってこの場所は、私にとってのあの曲と似ている。

 今まで縋っていたものに手を伸ばし、掴んでいるはずなのに体は流されていく。

 それは、とても怖い世界だった。


「でも、好きなんだ」


 違うんです。私はその言葉を聞いちゃいけない。

 飯塚さんの言葉を聞くはずの子はここにはいなくて、告白は言い訳じみた霧となって宙を舞った。


 でも、その子が聞くはずだったその告白は、確かに私を包み、私の殻の内側へと染み渡っていた。

 その言い訳が持つ確固たる信念も、誰も触れない愛情も、わがままな悲しみも、私は全部知っていた。


「幽霊は、いる」


 私は卓上ライトのスイッチを入れた。

 さっきまでぼやけていた飯塚さんの顔がはっきりと映り、私の顔が飯塚さんの目に映る。


 飯塚さんは泣いていた。

 私がそこにいたことには、驚かなかった。

 きっと飯塚さんは、ここにいるのが私だと気づいていた。


 ずっと、私は誰にも認められないものだと思っていた。

 誰にも見えないおじいちゃんとの日常を共有して、背伸びしても届かない名前にぶら下がった誰かでしかなかった。

 そんな中、飯塚さんは私を認められそうな、唯一の人だった。

 でもその飯塚さんもまた、誰にも認められたことがなかった。


 霧なんてどこにでも立ち込めているものだよ。

 そう、おじいちゃんのいう通り。

 本当はみんな霧の中でそれぞれその気になっているだけで、本当に認められることなんてないんだ。


 それでも、今なら飯塚さんのことを認められる、と思えた。

 もう、飯塚さんが私のことを認めてくれなくても良かった。

 今目の前にいる、涙を流している飯塚さんをただ認めたかった。

 それが霧の中にある幻の一つだったとしても、いい。


「好きです」




 


 竜宮のつかいでの練習の日、私たちは過去最高の演奏ができたとはしゃいでいた。

 どう考えても、私の演奏が上達したからだった。

 がむしゃらにあの曲を弾き続けた結果、私は一つの壁を乗り越えたらしく、急激に弾けるフレーズが増えていた。

 弾いている私が聞いてもわかるくらい変化があるものだから、今まで私はどれだけ足を引っ張っていたんだ、と振り返ってちょっと落ち込んだ。

 でもまあ、飯塚さんと荒井さんは喜んでいるし、そのことは私も嬉しかった。


「いやあ、やっぱり音楽っていいなって思った」


 と荒井さんが調子良く言った。

 それを聞いた飯塚さんが、私と荒井さんにそれぞれ目配せをした。 

 なんだろうと思った次の瞬間、


「よし、ライブやってみるか」


 と飯塚さんが言い放った。

 えええ、と私と荒井さんが声を上げて驚く。

 一瞬、私の頭の中には何とかフェスティバルとかいう、野外の大きなライブ会場を想像した。


「サークルのみんなで、どこかのライブハウスを借りて、ね」


 私たちが気後れしないように、一言添えられた。

 良かった。私は盛大な勘違いをしたまま、口を開くところだった。


 飯塚さんはもう一度私たちに目配せをした。

 この目配せは、どう? という意味だろう。


「やりたい」


 私は即答していた。

 荒井さんが私の方を見て驚くのが見えた。

 正直、私も驚いていた。

 でも、それ以上にステージの上で、色んな人が私たちの演奏に包まれる景色を見たかった。

 

「もちろん、私もやるよ! 夢だったんだあ、ライブ」


 興奮を隠し切れていない荒井さんが暴れる。

 それを見た飯塚さんが楽しそうに笑った。

 

「飯塚さん、この曲やりたいです」


 私は急いでスマホからフォルダを開き、一回間違えて友人との写真の画像を開いたあと、あの曲の譜面を開いた。


「お、スピッツか。いいね」


 今だったら、どこに行ってもこの曲を弾ける。

 私を侵食するくらいに殻を突き破ってきた、私の大事な曲。

 霧が晴れるような錯覚を覚えるくらい、私はステージの上でこの曲を演奏したかった。


「よし、じゃあ曲も決まったし、ライブハウスは俺が取っとくよ。日付と場所が決まったら教えるから、友達でも誰でも呼んじゃって。元取れるくらいにね」


 あ、と飯塚さんが固まる。


「その前に飯食いに行こう」



 そうしてidocoに直行した私たちは、飽きもせず前回と同じメニューを頼んでいた。

 まず私のサラダが来て、次に荒井さんのドリアが来て、大トリで飯塚さんの玉手球が運ばれてきた。

 特に麺類とかがあるわけでもなく、荒井さんが猫舌ということもあり、私たちはいつも同時に食べ始める。


 今回も漏れなく、飯塚さんの玉手球が運ばれたタイミングで、みんなが箸を持った。


「咲村さん」


 飯塚さんに呼ばれる。

 飯塚さんの方をみると相変わらずすごい湯気に包まれていた。


 すると、湯気の向こうからヌッと何かが出てきて、私たちの間に置かれたアクリルの上に掲げられる。

 それは、綺麗に包装された箱だった。


「誕生日おめでとう」


 えっ、と思った。

 飯塚さんに言われ、今日が自分の誕生日であることを思い出した。

 確かに、前に雑談の中で一度だけ誕生日を教えたことがあった気がした。


「えー、咲村さん誕生日だったんだ。私も何かあげたかったなあ」


 と荒井さんが残念がる。

 荒井さんとは誕生日の話をしたことがなかったからしょうがない。

 でも、気持ちだけいただくことにする。


 飯塚さんから受け取った箱の包装は、胡蝶蘭のシールで留められていた。

 とても綺麗なシールで、素敵な演出だった。 

 初めて、蘭という名前で良かったと思った。


「開けてもいいですか?」


 飯塚さんは湯気の向こうから「いいよ」と答えた。

 素敵な演出だったはずなのに、その間抜けさとのギャップが可笑しかった。


「蘭ちゃん」


 おじいちゃんの声が聞こえる。


「大丈夫だよ。みんな、霧の中にいるからね」


 幽霊は、いる。


 そう思って、プレゼントの包装を開けた。

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幽霊ごっこ だくさん @dark3s1

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