3. さきちゃん

 冷えた空気が私の肌に張り付いていた。

 その違和感で私は目を覚まし、腕をタオルケットの中に引っ込めた。

 いや、でも今日は仕事だ、起きなきゃいけない。


 枕元にあったスマホをタップすると、06:40の文字があった。

 アラームが鳴る5分前だった。

 頭の重さと痛みは、気圧によるものだと思う。


 体を起こすと、やっぱり寒かった。

 残暑だったことを忘れて、秋があるべき姿を晒したような空気だった。

 カーテンを開けると、まず霧が目に入った。駐車場の凹凸のあるコンクリートに溜まった水溜りに小さな波紋が見える。雨も少し降っているようだった。

 ああ、洗面所に行かなきゃ、と思うけど頭が痛くて動き出せない。

 

 私は諦めてそのまま外を眺めながら、昨日のことを思い出していた。

 過ぎてしまうと、夢だったんじゃないかと思うような出来事だった。

 でも、私はあのときの感覚をありありと思い出せる。

 飯塚さんの後ろを追う緊張、無地の黒いトートバッグ、廃れたパチンコ店の音漏れ、汗が乾かない蒸し暑い空気、霊園の土の匂い。

 私はあれから地続きの今日にいる。そして、なんでなのかわからないけど、そのことがたまらなく怖かった。


「蘭ちゃん、大丈夫だよ」


 気づくと、おじいちゃんが部屋のドアの前に立っていた。

 おじいちゃんはいつも通り、優しい顔を私に向けてくれる。

 でも、違うんだ、おじいちゃん。

 多分、大丈夫じゃない。



 その日の夜、私はどうしても心を落ち着けることができなくて、縋ることができる曲をひたすらに探した。

 ダウンロードサイトやアプリ、動画投稿サイトも漁った。

 結局、新しく聞く曲はどれもしっくり来なかったけど、動画投稿サイトにあった元々好きだったバンドの曲で私の縋る手は止まった。


 「広すぎる霊園のそばの このアパートは薄ぐもり」


 このフレーズが私の指に引っかかってくれた。

 私が知っているのはアパートではないけど、しがみつくのには十分な取っ掛かりだった。


 それから私はネットで譜面をダウンロード購入し、狂ったようにギターの練習した。

 竜宮のつかいで演奏する曲には全く触れず、動画投稿サイトの音源を聴きながら何度も繰り返し弾いた。

 そうしないと、私はあの霊園まで駆け出して、泣きじゃくったあとにそのまま死にたいと思って倒れてしまうそうだった。





 毒を毒で制している自覚はあった。

 でも、こんなすぐに蝕まれるなんて、思っていなかった。


 次の水曜日、いつものように竜宮のつかいのメンバーで練習をした。

 まだ気持ちが落ち着き切らない中、飯塚さんと会うのはちょっと怖かったけど、実際に会ったら思ったより落ち着けた。

 多分、怖いイメージに対して実物はあまりに何もないからだと思う。

 イメージだけが先走って、私は普通じゃなかったんだ、と自覚できたのだった。


 でも、それすらも間違いだった、と気づいたのは曲を弾き始めたときだった。

 私が最初の1音を鳴らしたその時から、もう私の体は私のものではなかった。

 あまりに無感情に、あまりにミスなく、私の体は竜宮のつかいの曲を奏でた。

 体がスムーズに動く一方で、私の心はその曲を弾くことを明確に拒絶していた。夜の焦燥が、一気に押し寄せた。


 私は手を伸ばして、あの曲に縋ることができたと思っていた。

 でもその行為は、私の殻に穴を開けて、あの曲に体の中を掴ませたに過ぎなかった。

 あの曲以外の曲は私の外にあって、決して侵入は許されなかった。

 そして、あの曲を竜宮のつかいの場で弾いてしまったら、私の殻はすべて剥がれ落ちてしまうのだろうと思った。

 

「めちゃくちゃ上手くなったな」


 練習の合間も、曲を合わせたあとも、練習が終わったときも、飯塚さんにすごく褒められた。

 本当はすごく嬉しいことのはずだったのに、その言葉をもらったのは私じゃない私だった。




 きっと、飯塚さんの中にいる幽霊は女の子なんだろうな。

 なんて改めて思う前から、飯塚さんの中にいる幽霊は女の子をイメージしていた。


 わざわざ会いに行ってるんだ。彼女をおいてまで。そして、彼女よりも幽霊をとって別れた。


 飯塚さんは幽霊の子が好き。


 そう思うと、呼吸が浅くなって涙がこみ上げてきた。

 嗚咽を堪えて、厚くなった布団の中で静かに泣いた。


「蘭ちゃん、大丈夫だよ」 


 布団の外からおじいちゃんの声が聞こえる。

 暖かい布団の向こうから聞こえる声は、いつもよりも遠くから話しているように感じた。


「霧なんてどこにでも立ち込めているものだよ。蘭ちゃんは霧に気づいただけ」


 きっと、そうなんだと思う。

 私は目を瞑って、霧の中に踏み込んでいない気になっていただけ。

 その小さな水の粒たちは確実に私の肌を濡らし、その隙間の空気たちは私の体の中を麻痺させていた。


 でも、それを認めるのは、すごく怖いことだった。

 それは、何をして良いのかわからない自分と、その後に起きる悲しみを認めることと同じだから。

 麻痺を自覚してしまった私は、よりその悲しみの予感を鮮明に感じてしまうんだ。


 おじいちゃん、私は何をしたら良いのかわからないよ。


「蘭ちゃん、蘭ちゃんは”何をしても良いんだよ”。おじいちゃんが全部認めてあげるよ」


 何をしても良い。それが一番怖いんだよ、おじいちゃん。

 私は、きっと誰よりも幽霊との絆のことを知っている。

 誰も触れない、自分だけが知っている温もりと繋がり。

 それを壊すことなんてできないし、何よりも私がそんなの嫌だ。

 おじいちゃんが認めても、私が認められない。


「蘭ちゃん、それでいいんだよ。嫌なことはしなくていいんだ」


「どうすればいいの」


「蘭ちゃんが、したいことをすればいいんだ」


 今すぐ、布団から飛び出して霊園まで駆け出したかった。

 何も話さなくていいから、飯塚さんに会いたかった。

 そこから先のことは、何もわからなかった。


「それでいいんだよ」


 布団をどけて部屋を見渡すと、おじいちゃんはいなかった。

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