2. 飯塚さん

「幽霊って信じる?」


 飯塚さんを待つ間、荒井さんがそんなことを言った。

 ハッと荒井さんの顔を見ると、いつものいたずらっぽい笑みがあった。

 冗談だ、とわかったけど、私の体は否応無しに緊張してしまう。冗談じゃない。


「もう」


 機嫌を損ねた私を見て、荒井さんが「ごめんごめん」と謝る。

 ちょっと心持ちを変えれば笑って済ませられるのに、わざわざ不機嫌っぽく見せてしまう自分が嫌だった。

 こんなことで誰かに気を遣わせるのは嫌なはずなんだけど、私の心は引き下がってくれない。


「飯塚さんのこと心配してるの?」


 笑みを優しそうなものに変えた荒井さん。

 真面目なトーンの声に、私の心も落ち着く。

 荒井さんは、私が飯塚さんに好意を持っている、と思っている。

 前々から言葉の端々にそういったニュアンスを感じたし、直接的な聞かれ方をしたこともある。

 私は毎回ぼやかして話を済ますが、荒井さんは全然折れない。

 でも、そう思っている上で「心配してるの?」という言葉の選び方は素敵だ、と思った。


「正直、ちょっと心配です」


 荒井さんがくれた綺麗な言葉をそのまま使わせてもらう。

 実際のところはもっと自分勝手な気持ちなんだけど、口に出して見ると本当に綺麗なもののように思えてくる。


「あんまり大きい声じゃ言えないんだけどね」


 と、荒井さんは切り出した。


「飯塚さんは闇を抱えているかもしれない」


 荒井さんは、話を聞いて欲しいときにわざと含みのある言い方をする。

 いつもは、何を話すんだろうなあ、程度に思って聞いてみるのだけど、今回は違った。

 私自身が「知りたい」と明確に思っていた。

 霧がかかった冷たい土地に、一歩踏み出す実感があった。


「どういうことですか?」


「話すと長くなりそうだから、練習終わったらで良い?」


 駅の時計は待ち合わせ時間の15時の4分前を指していた。

 荒井さんから話を聞く約束を取り付けたあと、いつもどおり時間ギリギリで飯塚さんが来た。




 私と荒井さんは喫茶店で向かい合って座っていた。

 私は荒井さんが話し始めるのを待っていたけど、荒井さんは私が質問するのを待っているようにも見えたし、ただ注文したアイスコーヒーを待っているようにも見えた。

 かと言って、私から尋ねられることはふわっとした抽象的なことになってしまいそうだから、やっぱり荒井さんが話すのを待つしかなかった。


 今日の練習を思い出す。

 というより、今日の飯塚さんのことを思い出していた。

 飯塚さんはいつも通りで、この間の「いるよ」と言ったときの飯塚さんの存在は全く感じられなかった。

 でも実はそれは私の勘違いで、常にあの飯塚さんはそこにいて、私が気づいていなかっただけなのかもしれない。

 飯塚さんにとってはあれが当たり前の姿だからこそ、今日もいつも通りでいられたんだ。

 荒井さんもいつも通り楽しそうだったし、私のギターもいつも通り下手くそだった。

 いつも通りじゃなかったのは、意識しすぎた私だけだったのかも。


「私の後輩にくらちゃんって女の子がいるんだけどさ」


 唐突に荒井さんが話し始めて、顔を上げる。

 そこで私は、自分が下を向いていたことと、アイスコーヒーがテーブルに置かれていることに初めて気づいた。


「倉橋だから、くらちゃん、って呼ばれててさ。その子、なんと飯塚さんの元カノだったんだよね」


 元カノ、という言葉に一瞬息が詰まり、呼吸の仕方を思い出せなくなった。

 誤魔化すようにアイスコーヒーのストローを吸い、バレないように鼻から大きく息をついた。


「私も知らなかったんだよね。でも、久しぶりに話すから当然バンドのことも話すじゃん? そしたら発覚したんだよ」


 飯塚さんがかつて愛した人。

 どっちが告白したんだろう?

 いや、どっちにしても、私の前に立ちこめている霧を突き破って、二人はカップルになった。

 足を踏み入れたら最後、戻ることはできない。ただ迷って中に取り残されるか、越えられるかしかない霧。

 私が知っている景色は、山の麓から見た霧が立ち込める山頂だけだった。 


「でさー、飯塚さんがどんな感じだったのか気になるじゃん? で聞いてみたら、なんかそんなにいつもと変わらないらしいのよ」


 霧の中の景色も、霧の先にある景色も、二人は知っている。

 疲れて歩けなくなったときには並んで座って、凍える夜は肌を寄せ合って過ごしたかもしれない。

 そして、共に目覚めた朝に喜びを分かち合ったかもしれない。


 いや、こんな例えもただ虚しかった。

 飯塚さんたちは、今私がいるところと同じリアルの中にいたんだ。


「問題は別れたところなんだけど」


 二人は別れたんだ。

 何か決定的に分かり合えないところがあって、別れた。

 それはきっと、霧の中を覗くことよりも怖いことだ。


「飯塚さん、幽霊に会いに行ってるらしいんだ」


 突然現実が戻ってきた。

 アイスコーヒーが入っていたグラスには、氷しか入っていなかった。

 あまりに透き通った視界に、荒井さんが映った。


「会いに行ってる?」


「そう。それがどこなのかはわからないんだけど」


 そう言って、荒井さんはアイスコーヒーを半分くらい飲んだ。

 私も一息つきたかったけど、私のグラスの中にあるのは澄んだ氷だけだった。

 どこなのかわからない。不思議な話のはずなのに、それが当たり前のことのように感じた。


「飯塚さんがそう言ったんだって。それから飯塚さんのことがよくわからなくなって別れた、って感じ」


 しかも「しょうがないね」って言って、特に悲しそうな素振りも見せずふらっと帰っちゃったんだって、と不満そうに荒井さんは続けた。

 荒井さんが性格的に不満に思うのはすごく納得できるけど、私は飯塚さんが誰にとっても飯塚さんであることにちょっと安心していた。


 それから、荒井さんからその倉橋さんにまつわる当たり障りのない話を少し聞いた。

 大人しい子だけどちゃんと意見は言う子だということ。

 特別可愛い訳ではないが、魅力はあるという子だということ。

 背は高くもなく低くもないということ。

 いつも出ているアホ毛が「くら毛」と呼ばれていること。

 話を聞くと、確かに愛らしい子だと思った。


 席を後にするとき、荒井さんのグラスに半分残ったコーヒーが目に入った。

 まるで、こんなはずじゃなかったのに、と言っているようだった。

 でも後味が変わらないのは、きっと霧の中の話であることに変わりはないからかもな、とも思った。




 練習以外の時間で、初めて飯塚さんを見かけた。

 きっかけは、家でギターの練習をしていると1弦が切れてしまったことだった。

 切れたときにはすでに20時を回った時間だったので、ひとまず5本の弦だけでやってみよう、と思ったけど、音が足りないのがあまりにも気になった。

 竜宮のつかいの練習で使っているスタジオには楽器屋が併設されている。

 私はそこに弦を買いに行き、その帰りの駅の改札前で飯塚さんを見かけたのだった。


 あまりにタイムリーだった。昨日荒井さんと話したばかりなのに。

 霧のような幻想感なんて全くない、周りに歩いている人たちと同じ現実感を持った飯塚さんが歩いていた。

 ただ、その飯塚さんはマスクをしておらず、ベースではなくトートバッグを持って歩いていた。


 飯塚さんはどこかに行こうとしている。

 飯塚さんはこの駅が最寄り駅のはずだからだ。

 この飯塚さんを逃すのはもったいない、と白々しく思った。

 本当は、こんな時間にどこへ行くのか、気になってしょうがないだけだった。


 飯塚さんが改札を通る。

 こんな時間でもまだ人は多い。

 人混みの向こうへ行ってしまいそうになる飯塚さんを、急いで、でもバレないように追う。


 飯塚さんは私の家とは反対方向の電車のホームの階段を登る。

 私は二択を迫られていた。歩幅が小さく、早くなる。

 結局私は決断できないまま、飯塚さんの後を追っていた。

 ああ、もう引き返せない。


 そして、バレないまま辿り着いた駅は、一度も降りたことのない小さな駅だった。

 背の高い建物が一つもなく、閑散としたロータリーがある。

 一番目立つのが、廃れたパチンコ店だった。

 ロータリーから伸びる道に分岐は少なく、その内の一つは山なのか丘なのか、上り坂が続いていた。

 飯塚さんは、その道を歩いていた。


 駅を降りたときから明らかに人が少なくなっていた。

 飯塚さんが後ろを向いたら絶対にバレる。でも、飯塚さんは一度も振り返らなかった。

 

 坂道を歩き始めて10分くらいすると木々が増え始め、そのくらいのときに、あ、と思った。

 舗装された道の脇にロープで囲われた小さな駐車場が現れ、その隣には霊園の入り口があった。


 幽霊に会いに行ってる。

 それは言葉通りの意味だったんだ、と私の臆病な心が改めて満たされる。

 霊園に吸い込まれていく飯塚さんを見失わないように、私も霊園にそっと足を踏み入れる。


 お墓が山に沿って、まるで観客席のように並んでいた。

 でもそれはコンサート会場というよりは、大学の講義室のような無表情さを持っていた。

 砂利でも敷き詰めたら人がいつでもいるような温かさのある場所になりそうなのに、剥き出しの土と局所的に生えた雑草がそれを拒んでいた。


 私は無意識に、飯塚さんはどこかのお墓の前で立ち止まるんだろう、と思っていたけど、そうではないことに気づいた。

 霊園の中腹より少し高いところの端っこに、木造の二階建ての古い小屋があった。管理人が使う小屋なのか、倉庫なのかわからないような小屋だった。

 飯塚さんは、そこに向かっている。


 さすがに小屋の中まで追いかけるのは難しそうだった。音がしそうだし、いくらなんでも距離が近すぎてしまう。

 私は諦めて近くの墓に身をかがめ、飯塚さんを目で追った。


 予想通り小屋に飯塚さんが入って間もなく、二階の窓から明かりが見えた。

 明かりが見えた窓には雨戸もついていたけど、雨戸は閉じていなかった。

 でも、少し遠くて中の様子がよく見えない。

 並んだ墓に身を隠しながら、少しずつ小屋へ近づいていく。


 そして飯塚さんの輪郭が見えたところで、またしゃがみ込む。

 飯塚さんは窓を背にしていて、左肩と後頭部だけが見えていた。

 明かりの感じから、多分天井についた明かりじゃなくて、明かりになるものをどこかに置いているようだった。


 それからずっと、その光景が続いた。

 高鳴る心臓は呼吸を忘れていたことだけが理由じゃない。

 飯塚さんは、今まさに幽霊と会っているんだ。

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