1. 竜宮のつかい

「咲村さん、それチューニング合ってる?」


 ギターとドラムの爆音の中、一瞬何か聞こえたような気がして、私は少し遅れて顔を上げた。

 すると飯塚さんが私を覗いていて「目が合いそう」と思ったけど飯塚さんはギターを見ていた。


「音変ですか? さっきチューニングしたんですけど」


 私たちが話しているのを聞いて、ドラムの荒井さんが音を出すのを止める。

 チューナーを取るため、ギターを抱えたまま壁に立てかけたギターケースに小走りで向かう。

 ギターからアンプへ伸びるシールドケーブルを跨ぐが、後ろ足が少し引っかかった。

 転ぶほどではないけど、少しヒヤッとした。このギターは私が買った初めてのエレキギターだからだ。


「多分5弦がズレてる」


 飯塚さんは私より遥かに楽器が上手だ。音を聞いただけでどの弦の音がズレているかわかってしまうらしい。

 飯塚さんはベースを担当しているけど、ギターもドラムもできてしまう。

 荒井さんも大学時代にサークルでドラムをやっていたらしく、私よりも全然楽器ができる。

 それに対して私は、大学最後の春休みに暇を持て余し、なんとなく買った安いアコースティックギターをポロポロ弾いていただけだ。音を聞いてもどの弦の音がズレているかなんて、全然わからない。


 社会人1年目になって、とりあえず何か趣味を作らなきゃと思った私は、10人くらいの人が写った写真をネット上に載せている緩そうな音楽サークルを見つけて見学しに行った。

 今となって考えてみれば想像に難しくない話なのだけど、みんな学生時代に軽音楽部をやっていて、私くらいのレベルの人は他にはいなかった。

 だがその日の帰りに飯塚さんに「是非入ってほしい」と猛プッシュされて、私は頭の中に明確な答えを用意できないまま「はい」と言ってしまった。

 私は未だに私が何者なのかわからないまま、まるで見えない人が私に乗り移ったように行動している。


「ホントだ。5弦がズレてました。さっき合わせたと思ったんですけど」


「これあるあるなんだけど、ヘッドをどっかにぶつけたんだと思う」


 今日も、何から何までお世話になって練習が終わった。

 家で一人でギターを弾いているときは何も気にならないのだけど、いざバンドで音を合わせるとなると少しのミスが目立って聞こえる。

 3人のバンドだから余計にそうなのかもしれない。

 飯塚さんは私のために簡単な曲を選んでくれたのに、うまくいかないと下手なだけじゃなくて自分が足並みを合わせられない人のように思えてしまう。

 借りていたスタジオの会計を済ませると、見慣れたマスク姿の飯塚さんが振り返った。


「じゃあ、今日もidoco行きますか」


「いいね、行こう」


 飯塚さんの誘いに荒井さんが乗り、私の方を見る。私も「はい」と言う。


 idocoとは私たちがよく行くカフェの名前だ。

 私たちのバンドー竜宮のつかいーの練習日である、水曜日と土曜日の内、水曜日に必ずと言っていいほど行く場所だ。

 飯塚さんは学生時代からよく使っているらしく、お店の人と仲が良い。

 

 今日もお店に着くとスタッフがすぐに気付いてくれて、楽器をカウンター裏に預かってくれた。


 四人がけのテーブル席に案内され、各々メニューを決める。

 新型感染症の影響でテーブルの真ん中にはアクリル板が置かれていて、メニュー表はアクリル板を挟んで1つずつ用意されている。

 私は一人でメニュー表を見るが、飯塚さんと荒井さんはテーブルにメニュー表を置いて二人で見ている形になる。

 確か飯塚さんは26歳、荒井さんは27歳くらいだったと思うが、こうやってみると男子大学生が並んでいるのとそう変わらないように見える。


「今日もごめんなさい。あんまり形にならなかった気がします」


 いつも満足のいく演奏はできないけど、今日はいつもに増してひどかったような気がする。


「またまたあ。蘭は自分に厳しいんじゃないのお?」


 荒井さんが笑いながらそう言ってくれる。

 いつもわざとらしいと言うか、オーバーリアクションな荒井さんを見てると多少なりとも元気になる。

 最初はすごく気の遣える人なんだと思っていたけど、付き合いが長くなってくるとこういうキャラなんだということがわかってきた。

 それでも根は優しい人だと言うこともわかっているので、私としてはなんとなく申し訳ない。


「なんか腹立つけど、俺も荒井さんに同意だなあ」


「なんで腹立つねん!」


 飯塚さんがマスクの上からでもわかるくらいニヤニヤする。


「まあまあ。でも本当に今回は前回より良かったよ。うまくいったように聞こえないんだったら、練習のときにもっとうまくいってるってことだよ」


「そう、なんですかね」


 実際のところは、すごく気を遣わせてしまっているのだと思う。

 飯塚さんは普段と同じ調子で話すからそれを感じさせないのだけど、それすらも気遣いなんだ、と思うと私のわがままな悲しみはあまりに釣り合わない。


「あとは、まあこんな話をしてもしょうがないんだけど」


 と飯塚さんは続ける。


「実はこのサークルで咲村さんの実力は、上から数えた方が早いんだよ」


「え、どういうことですか?」


 そこで、店員が注文した料理を運んできた。

 私の前にサーモンが入ったドレッシングサラダが置かれて、荒井さんの前にきのこのドリアが置かれた。

 いつも私はこのサラダだけ食べるので「お腹空かないの?」と荒井さんに心配されたこともあったが、家に帰るとお母さんが夜ご飯を作って待っているのでこれしか食べない。


 そこで一度店員が厨房に戻り、燃える青い固形燃料にあぶられた黒い球を持ってきた。

 idocoに来るたびに、飯塚さんが注文する「玉手球」だ。


 比較的落ち着いた雰囲気の店にはとても似つかわしくない見た目の、変わり種メニューだ。

 その中身はと言うと、鍋だ。一人前サイズの、タラや白菜、えのきが入った和風だしの鍋。

 何よりの特徴は、一見黒い鉄球のような鍋の蓋を開けると出てくる湯気だ。

 この湯気こそが「玉手球」の名前の所以だ。

 私たちのバンド名「竜宮のつかい」も実は玉手球が好きという理由で付けたんじゃないか、と荒井さんと話したことすらある。


 湯気に包まれた飯塚さんが話を続ける。


「実はサークルのメンバーは30人くらいはいるんだ」


「え、そうなの?」と荒井さんも驚く。


「でも、見たことないだろ? どこに行ったんだろうな。怖いなあ、怖いなあ」


「私、世代じゃないですよ」


「ガチの怖い話はやめろ」


「すみません」


「まあ、要は気付いたら来なくなってたってことだ。でも籍は残ってるから、いわゆる幽霊部員だな」


「そうなんですね。初めて知りました」


 どうやら、その幽霊部員よりも私の方が上手、だということらしい。

 そうは言われても、会ったことのない人と比べられても実感に乏しい。

 そんなことを思っていると顔に出ていたらしく、飯塚さんが笑った。


「その人たちも初心者だったんだけど、その人たちと咲村さんが決定的に違うのは音楽を続けている、っていうこと。そこは誇っていいでしょ」


 すごく耳あたりの良い言葉だ、と思った。

 言葉だけ聞くと胡散臭いけど、飯塚さんが言うと冗談にも本気にも聞こえるからか、不思議と受け入れやすい。

 多分、荒井さんが言ったら笑う。


 めっちゃ良いこと言うやん、と荒井さんが茶化す。


「そういえば今の話で思い出したんだけど、幽霊って信じる?」


 そう言ったのは、飯塚さんだった。

 一瞬、私の内臓が冷たくなった気がした。


「あー、いるかもしれないけど、信じなくても良いと思ってるかなあ、私は」


「荒井さんらしい答えだなあ」

 

 信じるも何も、私の家にはおじいちゃんの幽霊がいる。

 いるなんて言ったらそれこそ幽霊を見るような目で見られそうだし、何よりも今度こそおじいちゃんに会えなくなってしまう気がする。

 今までもこういう話題になることはあったが、なんとか誤魔化してきた。

 それでもこの話題が来るのは慣れない。

 

 大丈夫、今回も誤魔化せる。


「咲村さんは?」


「わたし……は、なんとなくいる気がしてます」


 飯塚さんが「へぇー」と感嘆の声を出す。

 できれば何もなかったように「そうなんだあ」と言って、玉手球を食べ始めて欲しい。

 玉手球から出る不吉な湯気が晴れたら、ちゃんと目があってしまいそうだった。

 そうなってしまったら、多分それは言葉より切実な訴えになって、開いてはいけない玉手箱を開いてしまうことになる。

 湯気の向こうにいるのは、おじいちゃんだって決まっているんだ。


「二人とも意外と完全否定派ではないんだな」


 皮肉な笑い、という形容が合うような話し方だった。

 湯気の向こうで飯塚さんはどんな表情を浮かべているんだろう。


「いるよ」


 飯塚さんがレンゲを玉手球に突っ込むと、湯気の切れ間からいつも通りの飯塚さんが見えた。

 あまりにピシャリと言い切るものだから、飯塚さんがなんと言ったのかわからなかった。

 聞き返すこともできないうちに「いるよ」と言ったんだ、と私の頭は理解できるようになった。

 でも、湯気の切れ間から見えた普通すぎる飯塚さんと、その現実離れした響きの間にあるギャップに収まる言葉は持ち合わせていなかった。

 できれば何も言って欲しくないと思って荒井さんの方を見ると、玉手球を見ていた。


 そんなうちに飯塚さんが玉手球を取り分けてくれて、結局私が口にできた言葉は「ありがとうございます」だった。

 荒井さんはその後もちらちらと飯塚さんの方を見ていたが、幸いなことに話題は別の方向へシフトし、特に堀り下がることはなかった。

 玉手球は美味しかったし、飯塚さんは優しかったし、荒井さんは面白かった。

 気づかぬうちに切ってしまった指のような痛みも、違和感程度のものに変わっていた。




 その日の夜、私は飯塚さんのことを考えていた。

 整理ができないくらいに私の心は乱れていた。

 私の心に踏み入られそうになったこと、初めて私の心が許されたこと、飯塚さんの心にも幽霊が棲んでいること、飯塚さんの心に棲む幽霊が誰なのかということ–––。

 今すぐ私は、私の体から私を開放して、飯塚さんのところへ飛んでいきたかった。

 でも私の体は私のことを離してくれない。責めて窓を開けて外へ飛び出せたら、と思った。

 違和感の先にあったカサブタの甘美な痛みの誘いを、必死に爪を立てて押さえつける。


 押し寄せる光景と感情の波から逃げるように、タオルケットを頭まで被る。

 早く明日が来て、明後日が来て、もう一日やり過ごしたら、また飯塚さんに会える。

 いつも通りの駅での待ち合わせ。私が先に着いて、荒井さんが来て、ギリギリに飯塚さんが来る。

 そんなにギリギリまで、いつも何をしているんだろう、と私は思う。

 スタジオへ向かう途中、喋る荒井さんと笑う飯塚さんの隣を少し大股で歩く。

 駅に隣接したデパートの中に入ったスタジオに着くのは、いつもあっという間だ。

 どうやったら、飯塚さんの中の幽霊に近づくことができるんだろう。


 暑い。


 体の周りにだけまとわりついた残暑の暑さが、私に現実を思い知らせる。

 たまらずタオルケットを剥いだけど、もう暑さは私の中に染み込んでいた。

 こうなってしまうともうどうしようもなく、私は目を開けた。

 あまりに微動だにしないリアルな天井が視界に立ち塞がった。

 私は体を起こし、リモコンでエアコンを点けて、1時間で切れるように設定した。

 今度はタオルケットもかけず、お腹の上で手を組んで寝る。

 意識ははっきりしているけど、さっきより落ち着いた。

 おじいちゃん、いるかな。

 手を組み直すと、おじいちゃんが手を添えてくれたような気がした。

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