第4話



「ありがとうございました」


 水曜日の夜。常連のおじいさんが帰ると実質営業終了、のはずだった。響いた鈴の音。こうなることを、緋成は何となくわかっていた。


 名前を呼ぼうとした声は喉で引っかかる。とぼとぼと歩いてきた咲奈は、そのままいつものようにカウンター席に座る。何を取り出すわけでもなく、ただ俯いたまま。


「……赤点とった?」


 沈黙を破った緋成の問いに、咲奈は噴き出した。


「クソみたいな質問しないで」

「そろそろテスト返される頃だと思って」

「それは合ってる。でも赤点候補はまだ先」

「候補とかあるの?」

「ある。前日夜に叩き込んだだけの世界史」


 笑みを浮かべた咲奈に、緋成は密かに安堵する。昨日の夜、高台で。あの後しばらく無言で星を見上げ、咲奈の母親からの電話を合図にして帰路に着いた。別れ際に車の中で見た咲奈の顔は、いつもと変わらないように見えた。


「何か飲む?」

「別れたの」


 2人の声が、見事に合わさった。咲奈だけは顔色を変えない。被った言葉を手繰り寄せ、理解するまでに数秒要した緋成は、一瞬目を逸らし、そしてまた合わせた。


「……何と?」

「彼氏」


 まさかの返答に、緋成は目を丸くした。



『この世界の全部を愛とか恋に繋げないでほしいし、そこにいくまでの伏線にしないでほしい』



 先日そう言っていた咲奈の顔は、嫌悪という言葉がこれでもかと当てはまったものだったから。


「彼氏いたんだ」

「みんな恋愛の話するから、とりあえず付き合うっていう経験をしておきたかったんだよね。予想じゃない実際の感想は、また違ってくると思って」

「で、その感想は?」


 咲奈は息を吐いた。それはそれはわかりやすい、重い重い息を。


「あの時間があるなら、もっと別のことがしたい」

「例えばどんな?」

「ドラマ見たり音楽聴いたり?」

「それは彼氏がいてもできそうだけど」

「満足できる時間は多い方がいいじゃん」


 緋成に向けられたそれは、もはや睨みに近いものだった。しかしその鋭さは瞬時に解ける。


「……多分後悔するよね。ある程度進んでから、何もないことを寂しく思ったときに、あのとき動いとけばよかったかもーって」


 咲奈は前に置いてあるナプキンを手に取り、くるくると折り始めた。


「でも、なんだろ、今の私を殺してまで、過ごさなきゃいけない時間じゃなかったな」


 折りたたみ、また広げる。それを繰り返してしわしわになったナプキンを伸ばして、正方形に整えた。


「……ごめんね」

「何が?」

「昨日から、変なことばっか言って」

「全然。別に変じゃないし」


 そう言いながら、緋成は戸棚からグラスを取り出し、水道の蛇口を捻って洗い始めた。飲み口が少し窄まっているから、スポンジを取り出そうとしたときにいちいちコポっという音が鳴る。


「仮に後悔したとしても、今の状況は咲奈が一生懸命考えた結果だから。投げやりでも適当でもないこと、わかるよ」


 緋成はその良し悪しについて口にしなかった。というより、言えなかった。

 将来の道の決め方は? 好きとは何なのか?

 生きていく上で触れやすいところにあるにも関わらず、永遠に議論できそうなテーマが多すぎる。成長がポジティブな要素だけでないことは、懐かしさに感じる苦しみが証明していると、緋成は思う。



「で、今日は注文ありますか?」


 メニューを差し出した緋成に、きゅっと結ばれていた咲奈の唇の力が緩む。受け取ったかと思えば、開くことなくカウンターに置いた。




「いつもの、メロンクリームソーダ」










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クロノスタシス izu @_pompom_

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